日米和親条約と不公平為替レート貿易(日米修好条約)
ペリーの黒船来航(くろふねらいこう)とは、千八百五十三年(嘉永六年)に米国海軍東インド艦隊が、日本の江戸湾浦賀に来航した事件である。
今から百五十二年前(千八百五十三年)、東京湾の奥深く、江戸に近い浦賀にペリー艦隊がやって来る。
ペリー艦隊に武力で威嚇された幕府は、当然ながら攘夷派と開国・通商派の間でその対応に紛糾する。
この幕府が混乱した時に、登場した幕府の大老が井伊直弼(いいなおすけ)で、彼は狂人的な開国論者だった。
どうだろうか、この狂人的な開国論者・井伊直弼(いいなおすけ)が、熱狂的な親米論者の小泉純一郎氏と「良く似ている」と思うのは我輩だけだろうか?
マシュー・ペリーの来航に伴い幕府が孝明天皇の勅許無しで米国と日米修好通商条約を調印、開国に踏み切る前後の江戸幕府は、幕府の内部でも開国派と攘夷派の間で暗闘が始まっていた。
マシュー・ペリー提督によって米大統領国書が江戸幕府に渡され、日米和親条約締結に至って、「幕末」の機運が盛り上がって行く。
つまりこのぺりーが来航が、国内で起因した大問題ではない米国のサブ・プライムバブル崩壊と同じ外的要因の困難だったのである。
ぺりー来航は、百五十年前の日米和親条約は極端な不平等条約で知られる「日米修好条約」の為であった。
そして「エエジャナイカ騒動」が起こって不安を煽り立てたのもこの時期だった。
実はこのマシュー・ペリー提督との「日米和親条約」は酷い不平等条約で、その後の日本の未来に大きく暗い影を落とすものだった。
明治維新のきっかけとなった黒船来航については正しい見方が必要で、その目的は鎖国していた日本への「開国の要求」であるが、裏にあるのは「日本からの富の収奪」である。
つまりヨーロッパで食い詰めた人々が、開拓と称して他人(ネイテェブアメリカン)の土地にズカズカと乗り込んで米国を建国した経緯そのままの、武力で威嚇して富を収奪するのが米国流スタンダードの外交である。
通貨の「為替レートの比率が半分(1:2)」に決められ、米国の通貨二十ドル金貨=二十円金貨(当時世界的に金本位制だった)で金の目方(量)を合わせた単位で始めた通商は、決済には倍の四十円支払う事になり、大量の金銀を日本から米国へ流出する事と成った。
これで米国の当初の目的、日本からの「富の収奪」は長期的に果たされる事に成るのである。
この権威失墜に乗じて、反幕派による「尊皇攘夷運動」を引き起こし、千八百五十八年頃の「安政の大獄事件」にと、歴史の場面が移り行く事になる。
千八百五十九年(安政六年)の冬、「日米修好通商条約」の批准交換の為に使節団が米軍艦ポーハタン号で渡米する事となり、その護衛として随行船・咸臨丸をアメリカ合衆国に派遣する。
この遣米使節の正使及び副使に、共に外国奉行及び神奈川奉行を兼帯していた新見正興(しんみまさおき)と村垣範正(むらがきのりまさ)が任命された。
外国奉行としては村垣が先任で在ったが、村垣は知行五百石、対して新見は知行二千石の格上大身で在った為、新見が正使に村垣が副使となった。
目付(監察官)には、秀才の誉れ高い小栗忠順(おぐりただまさ)が選ばれた。
小栗忠順(おぐりただまさ)は、密かに「日米修好条約」の不公平為替レート貿易を「日米和親条約締結」の場で是正させる目的を持ってタフな交渉をしているが、是正は成らなかった。
また、この遣米使節の随行船・咸臨丸には、後に江戸城無血開城に尽力した勝安房守(号は海舟)や小栗忠順(おぐりただまさ)、福沢諭吉(ふくざわゆきち)等が乗船していた。
日本史では一般に、このペリーの黒船来航事件から明治維新の新政府成立までを「幕末」と呼んでいる。
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皇統と鵺の影人
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