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上杉景勝(うえすぎかげかつ)と直江兼続(なおえかねつぐ)

真偽の程は定かでないが、関が原合戦の端緒を開いたのは上杉家・執政・直江兼続の世に言う「直江状」だと言われている。

武将と言う生業(なりわい)は戦商売みたいなもので、命を的にするから知恵や経験が物を言う。

ある程度己に自信がある武将は、まだ出来上がっていない「これぞ」と思う少年に目をかけて己(自分)流の兵法を「一から仕込もう」と言う願望を持つ。

「己の全てを注(そそぎ)ぎ込む」となると、信頼関係が大事だから稚児小姓(衆道)として常に傍(かたわら)に置き、心身ともに愛情を注(そそぎ)ぎながら教え聡(さと)し有能な部下として育てる。

上杉家の天才武将官僚として今直語り草にされている直江兼続(なおえかねつぐ)は若かりし頃、「不敗名将・仁(じん)の人」と謳われた上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾輝虎)稚児小姓(衆道)として育てられ、言わば上杉謙信(うえすぎけんしん)流武将学の継承者である。

直江兼続(なおえかねつぐ)の出自については諸説あり、資料的な確証はない。

千五百六十年(永禄三年)、兼続(かねつぐ)は上田長尾家重臣・樋口家の長男として生誕する。

父は上田長尾家々臣・樋口兼豊(ひぐちかねとよ)と伝えられる。

樋口兼続(ひぐちかねつぐ)は、上杉輝虎(謙信)の養子となった政景の子・顕景(後の上杉景勝)に従って春日山城に入り、景勝の稚児小姓(衆道)・近習として近侍する。

千五百八十一年(天正九年)、兼続(かねつぐ)二十一歳の時に、主君・景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害される事件が起きる。

兼続(かねつぐ)は主君・景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった船(せん/おせんのかた)の婿養子(船には再婚)となり、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となる。

この婿養子の経緯で、兼続(かねつぐ)は直江兼続(なおえかねつぐ)を名乗る事に成った。

主君・景勝の信頼厚い直江兼続(なおえかねつぐ)は、上杉家の運営を執政として任されるまでに出世を果たした。


豊臣秀吉の要請で越後から合津に移った上杉氏(うえすぎうじ)・百二十万石は、上杉謙信から上杉景勝の代になっていた。

上杉景勝は秀吉政権下で五大老の一人として任じられ、その上杉家・執政・直江兼続と豊臣家直臣で五奉行の一人石田三成とは懇意な間柄だった。

この直江兼続と石田三成の二人が連絡を密にして徳川家康に上杉討伐の兵を挙げさせ、家康が東進している間に大阪で打倒家康の兵を三成が挙げ、「挟み撃ちにするる作戦ではなかったのか」と、世に兼続・三成の密約説がある。

直江兼続の祖は系図で言うと、遡れば平安末期の武将・中原兼光(なかはらのかねみつ/樋口 兼光)に辿り着く。

中原次郎兼光は木曽(源)義仲の家臣で、義仲の愛妾・巴御前の兄と言う方が判り易い。

木曽(源)義仲敗死後、中原兼光は源頼朝方に降伏するが斬首されるも、その遺児が残って樋口家末裔の樋口兼豊が上杉景勝の実父である上田長尾家・長尾政景(ながおまさかげ)に臣従、樋口家は上田長尾家執事或いは上田長尾家・家老とも言われ、樋口兼続は謙信の実姉(景勝の母)の推薦で景勝の小姓近習として五歳と言う幼い頃から近侍していた。

樋口(直江)兼続は、主君・上杉景勝の小姓近習時代に越後の虎と称された国主・上杉謙信の生涯敗れた事の無い戦ぶりと領国経営の生き様に感銘し、生涯その謙信を手本として上杉家を主導するに到っている。

兼続も偉いが、その才能を見込んで任せた主君・上杉景勝の度量の良さも、或いは国主たる者の持つべき才能かも知れない。

上杉景勝は上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれ、兄の死去で一旦は長尾家を継ぐが、生母が上杉謙信(長尾輝虎)の実姉・仙桃院だった為に、子供の居ない上杉謙信(輝虎)の養子と成っていた。

千五百七十八(天正六年)、一代の風雲児・上杉謙信が急死する。

その後、家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝と相模の北条氏から養子に入った上杉景虎との間で御館の乱が起こり、景虎の自害に拠り兼続の主君・景勝が上杉家を相続し越後国主と成る。

その上杉家内乱の三年後に景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害される事件が起き、跡取りの無い直江家を継ぐ事を主君・上杉景勝に命じられた樋口兼続は、その命により直江景綱の娘で直江信綱の妻であった船の婿養子(船にとっては再婚)に入って直江家を継いで直江兼続を名乗り、越後与板城主となる。

直江家を継いで直江兼続と成った兼続は、主君・上杉景勝の信任厚く上杉家を取り仕切る事を任されて、合津国替えの時点では陪臣ながら出羽米沢に六万石の所領が与えられ、景勝より配下に預けられた寄騎の軍勢を加えると、上杉百二十万石の四分の一に相当する凡そ三十万石に相当する軍勢を与えられていた。

越後上杉家・上杉景勝(うえすぎかげかつ)と直江兼続(なおえかねつぐ)主従の会津及び米沢移封は、戦に強い上杉家を「なるべく都から遠避けたい」と同時に、北の竜・伊達政宗と関東に据えた徳川家康の間に楔(くさび)を打ち両者の動きを牽制させる事に在った。

新たに移封された上杉家の本領は伊達家が苦労して攻め取った旧領が大半で、特に直江兼続の移封先である出羽国・米沢城は伊達政宗の出生の地で、上杉家に本拠地を取り上げられた形となる伊達家としては上杉家とのわだかまりは強く、秀吉の思惑通りに両家の仲は最悪だった。

その後、関が原合戦の後処理(仕置き)で上杉家が米沢三十万石に減封されると、兼続は自らを五千石の知行に減らして家臣を説得、抱えた家臣を手放す事無く領国経営に力を入れて産品を増やし、石高以上の国力を生み出して後の世まで称えられている。

上杉家は減封を繰り返して十五万石時代、藩主実父・吉良上野介が元禄・赤穂事件(俗称・忠臣蔵)で討ち取られるなどしたが、なんとか江戸幕府体勢の中で生き残って行く。

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by mmcjiyodan | 2009-02-17 21:34  

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