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治承のクーデター・寿永の乱(俗に言う源平合戦)

平安末期の千百五十九年(平治元年)に源平の圧力が頂点に達し、「平治の乱」が勃発する。

この「平治の乱」で源義朝らを破った平清盛が、強力に権力を握り始めるのである。

ただ、この「平治の乱」の事後処理に於ける平清盛最大の失敗は、宿敵・源義朝の忘れ形見・源頼朝の死罪を継母・池禅尼(いけのぜんに)の助命嘆願に応じて伊豆へ流刑とした事である。

千百七十七年には、前天皇の院(後白河法皇)と平家・(平清盛)のせめぎ合いの中で、鹿ケ谷の陰謀事件が起こる。

これは多田(源)行綱(多田源氏の嫡流)の密告(異説あり)で清盛に露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。

藤原師光(西光)は処刑とし、藤原成親は備中へ流罪(流刑地で崖から転落と言う謎の死を遂げる)、僧の俊寛らは鬼界ヶ島に流罪に処した。

この時は流石に清盛も、後白河法皇に対しては遠慮があり、罪を問わなかった。

治承三年(千百七十九年)、この年は清盛にとって不幸が続いた。

まず、娘の盛子が死去する。

法皇(後白河)は清盛を無視して、直ちに盛子の荘園を没収する。

更に、清盛の嫡男で後継者としていた平重盛が、四十歳代の始めで病死してしまった。

これには清盛も流石に落胆の色を隠せなかったが、またも法皇は平重盛の死去と同時に、重盛の知行国であった越前国を没収してしまうのである。

このたて続けの不幸、当時の事である。

驕(おご)る平家に怨念が渦巻いていたのか、勘解由小路党の影の力がなしたる人為的な災いなのかは判らない。

ただ、平家(清盛家)に災いが重なっていた。

そして、この不幸に追い打つような、立て続けの冷たい没収劇、勿論平家一門の力を削ぎ、院政を継続させる為の施策である。

清盛は、この法皇の自分を無視する身内の領地没収施策に遂に激怒し、「平家のクーデター」を起こす。

清盛はこのクーデターで院の近臣である藤原基房を始めとする反平家公家、およそ四十人の任官を全て解任し、親平家系の公家を代わって任官させる。

勘解由小路党は諜報機関であり軍ではないから、この清盛の専横を阻止する正面切った力はない。

せいぜい謀略や暗殺を持って対抗する事になる。

後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが既に遅く、清盛はこれを許さず、終(つい)にこの年末近くに鳥羽殿に幽閉してしまう。

幽閉されても、勘解由小路党の連絡は生きていた。

しかし後白河院政は完全に停止し、清盛一族の独裁による平氏政権が成立し、全国六十余州の半数以上を支配、藤原家を凌(しの)ぐ大勢力と成った。

平家のクーデターは、平清盛の公家政治への挑戦でもあった。

公家と武家の狭間とは言え、武家が実質政治の中心に座ったのは、実は平清盛の平家が最初かも知れない。

この平清盛の皇室への仕打ちが、後白河天皇(後に上皇)の第二皇子・以仁王(もちひとおう)の平家討伐決意となり、令旨(りょうじ)が発せられて「以仁王の乱・源頼政の挙兵」とその討ち死により少し遅れて全国の源氏に届き、挙兵の動きが活発なものに成って、これを契機に諸国の反平家(反清盛平家)勢力が兵を挙げ、全国的な動乱(俗に言う源平合戦)である「治承のクーデター・寿永の乱」が始まって行く。

その中心的立場に立ったのが、助命して伊豆国に流刑とした源頼朝だった。

【治承のクーデター・寿永の乱(俗に言う源平合戦)】に関しては広範囲に渡りますので、本編の【第二巻】か、下記にお続き下さい。

源平合戦の真実】に飛ぶ。
木曽義仲(きそよしなか)】に飛ぶ。
源頼朝(みなもとよりとも)】に飛ぶ。
石橋山合戦】に飛ぶ。
富士川の戦い】に飛ぶ。
源義経(みなもとよしつね)】に飛ぶ。
源義経・一ノ谷(城戸の戦い)の奇策「ひよどり越えの逆落とし」】に飛ぶ。
壇ノ浦の戦いと松浦(まつら)水軍】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2009-03-06 04:00

 

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