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比企能員(ひきよしかず)の変

鎌倉初代将軍・源頼朝の落馬死(??)により千百九十九年(正治元年)に家督を継いだ鎌倉二代将軍・源頼家には正室は居なかった。

一般的に妾妻とされる将軍・頼家に寵愛された「若狭の局(わかさのつぼね)」は、頼朝の乳母「比企の尼」の孫で、比企能員(ひきよしかず)の娘である。

比企氏が頼朝源氏との関わりが深かった為に権力の中枢に近づき、結果、北条氏と比企氏が鎌倉幕府の指導権を巡ってぶつかる事になる。

比企尼(ひきのあま)は伊豆流罪と成っていた流人時代の源頼朝を「支援していた」と言う。

その関係から比企氏は、頼朝旗揚げの早い時期から頼朝を支えた御家人として活躍している。
流罪中も乳母・比企尼(ひきのあま)支援を受けていた源頼朝は、比企尼(ひきのあま)の猶子(ゆうし/養子)・比企能員(ひきよしかず)を側近として重用、比企氏の一族は、比企尼長女・丹後内侍(たんごのないし/安達盛長室)の娘が源範頼に嫁ぎ、河越重頼に嫁いでいた比企尼次女・河越尼は二代将軍・源頼家(頼朝・嫡男)の乳母と成って娘(本書では仮名・玉御前)が源義経に嫁いでいる。

尼御台・北条政子が、我子である頼家に敵対した訳は、「若狭の局(わかさのつぼね)」を寵愛する頼家をめぐる嫁姑の確執に止まらず、北条氏と比企氏と言う氏族の論理が根底に有ったからである。

鎌倉二代将軍・源頼家が家督を継いで間もなく、北条時政北条政子の野望が噴出、北条氏など元老の干渉も多く老臣会議制を敷かれて将軍独裁を封じられた。

更に千二百三年(建仁三年)に頼家が罹病した時、相続の事が議せられて、北条時政と母政子(時政の娘)が、頼家の実子・一幡と弟実朝(千幡)に分譲する案を出した。

若狭の局が頼家との間に成した子・一幡が正式な後継ぎになると、比企氏の力が北条氏を上回りかねない危機感を募らせたのは北条時政・政子の親子だった。

これに対し、一幡の独裁を主張する一幡の母である若狭の局の父・比企能員(ひきよしかず)と意見が対立し、北条氏との間が次第に険悪化して行った。

二代将軍に任じた頼朝の嫡男・頼家は、将軍とは名ばかりの立場に置かれたが源氏の実権の回復に努め、北条父娘の圧倒的勢力に対抗して、妻の実家「比企家」を頼り、妻の父「比企能員(ひきよしかず)」らと、北条時政を政権中枢から外そうとして失敗、返えって北条方の攻撃を受け、小御所(一幡の館)に篭城し抗戦するが、比企能員と頼家の実子・一幡は焼き討ちにされて殺され、比企氏は時政に滅ぼされ、頼家は退任させられ、伊豆国・修禅寺に幽閉されてしまった。

伊豆の修善寺に流され、幽閉されていた二代将軍・源頼家は、翌年の千二百四年(元久元年)に北条時政の密計により、伊豆国修禅寺門前の虎溪橋際にある箱湯において、二十三歳と言う若さで刺客に暗殺された。

頼家の将軍在位は、僅か四年であった。

「若狭の局」は、「北条政子に殺された」と言える。

夫の頼家との息子「一幡」までも焼き討ちにされ、悲しみのあまり悲劇の入水自殺(自殺と成っているが暗殺説もある。)をして居る。

なお、この事変、世に言う比企能員(ひきよしかず)の変であるが、かなり胡散臭いのである。

北条氏征伐を企てたとされる比企能員(ひきよしかず)が、敵である筈の北条時政の邸を無防備に訪れている不自然さなどから、歴史学者からは「比企氏の変」自体が北条氏の「でっちあげであろう」との見方が為されている。

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関連記述
源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉幕府二代将軍)】に飛ぶ。
源実朝(みなもとさねとも/鎌倉幕府三代将軍)と鶴岡八幡宮暗殺】に飛ぶ。
若狭の局(わかさのつぼね)】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2009-03-16 13:06  

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