豊臣(羽柴)秀長(とよとみのはしばひでなが)
さて、本筋の秀吉の名軍師・豊臣羽柴秀長は幼名を小竹(こちく)、長じて小一郎と言い、秀吉の異父弟(一説には同父弟)とするのが一般的である。
秀長は、秀吉がおね(ねね/高台院)との婚礼後に足軽小頭に出世したのを機会に声を掛けられて臣下となった。
しかし秀長の父・竹阿弥(ちくあみ)は織田信長の父・織田信秀の同朋衆(雑務や芸能にあたった御坊主衆)で、「武士の心得など無かった」と言われる秀長が、僅かな期間で秀吉の補佐をする武将になったのは稀な才能と言えるのではないか。
秀長は生来の知恵者に生まれたらしく、度重なる兄・秀吉の戦闘作戦には常に傍らに在って指揮を補佐し、「的確な助言に定評が在った」と言われている。
温厚な人柄で、兄を立て兄を助ける補佐役に徹し天下統一に貢献、後には名調整役として各大名からも頼りにされる人格者であった。
千五百八十三年(天正十一年)木下小一郎から羽柴長秀を名乗り、従五位下美濃守に叙任され、翌年には長秀から秀長に改める。
羽柴秀長は、秀吉の天下掌握後は大和国の郡山城に入り、百万石を超える大身となり、千五百八十六年(天正十四年)従三位に昇叙して権中納言、翌千五百八十七年(天正十五年)従二位に昇叙し、権大納言となり大和大納言と呼ばれる。
天下を掌握した秀吉は、その他にも乏しい親族を次々に取り立て、甥の秀次を近江国八幡四十三万石、秀勝を丹波国亀山城主にそれぞれ取り立て、身内で固めて淀の方(茶々)との間に出来た実子の鶴松を後継者と定めた。
この辺りから豊臣家に暗雲が漂い始める。
秀吉の両手とも知恵袋とも評された、豊臣秀吉の弟・大納言秀長の病である。
千五百九十年(天正十八年)に天下統一を果たした翌年から四年の間に、頼りになる弟の大納言秀長を始め、長子の鶴松、丹波国亀山城主の秀勝そして秀長を継いだ秀保が相次いで死んでしまった。
この一連の「秀吉の身内」の相次ぐ死、誰かの呪いが効いているのでなければ、明智(南光坊)と雑賀孫市の仕掛けた陰謀、病死に見せかけた「暗殺ではない」と言う証拠はない。
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