弘文天皇(こうぶんてんのう/追認皇位)
大友皇子(おおとものみこ/弘文追認天皇)は、父・天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)の下で六百七十一年(天智十年)に太政大臣となり、その政務を補佐するも、後に皇位を継いだかどうかが確かではない。
大友皇子(おおとものみこ)は、天智大王(てんちおおきみ)の崩御(ほうぎょ/亡く成る)後、天智後継者として統治した。
だが、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が、紀伊半島とその周辺に居住する海人族(かいじん/隼人・呉族)系の地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえし、壬申の乱(じんしんのらん)を起こした。
この「呉族系豪族を味方にした」との日本書紀の記述や大海人(おおあま)の名から大海人皇子(おおあまのみこ)は百済系・呉族と解される。
だが、実は大海人皇子(おおあまのみこ)が新羅系・加羅族の出自では天智大王(てんちおおきみ)のあとは血統として継げないので、「呉族系を装った」と言う疑惑を感じる。
異説によると、皇統外の天武天皇(大海人皇子・おおあまのみこ)が「革命」に成功し、皇統の系図を書き換えて、天智天皇の弟に納まり、第四十代天皇を継いだと言う「疑惑」である。
壬申の乱(じんしんのらん)に於いて、大友皇子(おおとものみこ)は叔父・大海人皇子(後の天武天皇)に敗北し、首を吊って自害する。
先帝・天智天皇崩御から壬申の乱による敗死までその治世は約半年と短く、大友皇子(おおとものみこ/弘文天皇)は即位に関連する儀式を行う事は出来なかった。
その為弘文天皇(こうぶんてんのう)は、歴代天皇とみなされてはいなかった。
そして長い事、弘文天皇(こうぶん天皇)は天皇としては公文書から除外されて来たが、千八百七十年(明治三年)に諡号を贈られ、ようやく第三十九代天皇として追認皇位を認められた。
そうした経緯から、大友皇子(おおとものみこ)と表記される事も多い。
「日本書紀」には、天智天皇は実弟・大海人皇子を東宮(皇太子)に任じていたが、天智天皇は我が子可愛さの余り、弟との約束を破って大友皇子を皇太子に定めたと記されている。
ただし漢詩集「懐風藻」や「万葉集」には「父・天智が大友皇子を立太子(正式な皇太子と定めること)していた」とあり、これを支持する学説もある。
また、皇位には天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)の皇后・倭姫王(やまとひめのおおきみ)を立て、自らは皇太子として称制していたとする説もある。
弘文天皇(こうぶんてんのう)は、千八百七十年八月二十日(明治三年七月二十四日)に淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代天皇)・仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう/第八十五代天皇)と共に明治天皇(めいじてんのう/第百二十二代天皇)から「弘文天皇」と諡号(しごう)を賜られて天皇と認められる。
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皇統と鵺の影人
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