築山御前(つきやまごぜん)・松平信康親子の処断
松平元康(徳川家康)の正妻・築山御前(つきやまごぜん)の本姓名は関口瀬名(せきぐちせな)である。
瀬名(せな)の母は今川義元の妹で、つまり瀬名(せな)は義元の姪にあたるので、夫・元康(家康)を今川に味方させたい心情が在って当然と言える。
家康は日本史上長い事、織田信長の命で正室・築山御前を殺害、長男・松平信康を切腹させた事にされていた。
この事件、忠誠心を確かめる為に徳川家康に長男・松平信康の「殺害を迫った」とされて、織田信長にはとんだ迷惑な濡れ衣だったが、信長のその強烈無慈悲な生き方から、疑いもされずに「信長が命じた」と世間に信じられたのは自業自得なのかも知れない。
所が最近の研究では、この時期の織田信長は相撲や蹴鞠見物に興じていて、同盟者である家康にこのような緊張関係を強いていた様子は「伺えない」とされ、信長は築山御前と松平信康の殺害など命じては居ず、殺害原因として「家康と信康の対立説」の方が有力視され始めている。
それにしても子煩悩な家康が、殺害まで決断する「家康と信康の対立」の裏には何があったのだろうか?
その対立の原因が、双子の家康(元康)の入れ替わりであったなら、築山御前・松平信康親子にとつては家康(元康)は別人で、対立は確実に修復不可能なものであった事に成る。
この戦国時代、実家が婚家に滅ぼされる事は珍しく無いし、婚家の世継ぎを産んでいれば嫁は婚家に納まるのが一般的である。
だからこそ、松平元康の家族が「徳川家康の家族では無かったのなら」との疑惑が生じるのだ。
入れ替わった家康(元康)に本当の子供が出来たのが、千五百六十二年(永禄五年)の清洲同盟以後と考えると、側室・於万の方の胎になる結城秀康からであれば、信長の命による殺害説よりも、近年言われ始めた家康と信康の対立説の方が遥かに説明が着くのではないのだろうか?
築山・信康親子が松平元康(徳川家康)の入れ替わりを容認しないのであれば、公表出来ない双子の入れ替わりの秘密を守る為には口を封ずるしかない。
家康は築山・信康親子の処断を決断し、まず築山殿を二俣城への護送中に佐鳴湖の辺(ほと)りで殺害させ、更に二俣城に幽閉させていた信康に切腹を命じた。
この戦国時代、実家が婚家に滅ぼされる事は珍しく無いし、婚家の世継ぎを産んでいれば嫁は婚家に納まるのが一般的である。
だからこそ、松平元康の家族が「徳川家康の家族では無かったのなら」との疑惑が生じるのだ。
それにしても、三河物語にはそんな事は書いていないし書ける筈も無い。
幸いな事に、三河物語に記述する頃には一方の当事者・織田信長はこの世に居なかった。
世論が性善説を好む所から、家康が妻子を殺したのは「信長に忠誠心を疑われて泣く泣くてを下した」と言う、「お涙頂だい」のストーリーを後の人々が生み出したが、どうやら希望的憶測から産まれた事になりそうである。
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