ニニギの命(みこと/アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギ)
この「上古天皇」は、「かみふるてんのう/かみのみなすめらみこと」と読むのだが、この「上古天皇(かみふるてんのう)」は「神降(かみふ)る=天孫降臨」とも読め、古事記・日本書紀の編纂意図が伺われる。
記・紀神話(古事記・日本書紀)の壮大な物語に拠ると、天界の神・天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫である天孫・ニニギの命(みこと)が、葦原中国(アシハラナカツクニ・天界に対する地上の国)の平定を受けて、古事記に拠より葦原中国の統治の為に高天ヶ原より「筑紫の日向の高千穂のくしふる峰に降りてこられた」と記される日本神話の説話である。
つまり皇統の祖は「天から舞い降りた神の子孫」と言うのである。
天孫・ニニギの命(みこと)の妻は木花開耶姫(このはなさくやひめ)で、子に海幸彦・山幸彦(うみさちひこ・やまさちひこ)がいる。
高千穂(たかちほ)から見て日の昇る東の方向に北川町があり、天孫降臨伝説の可愛岳(えのだけ)がそびえている。
この神話の山・可愛岳(えのだけ)なのだが、まず不思議な事に、高い岩山ならともかく、この高さの土に覆われた山では、けして説明が付かない多くの巨石がこの山にはある。
山頂の鉾岩や三本岩などは、考古学者によると弥生時代に建造された人工的立石で、他にも石組と考えられる多くの巨石が点在している。
人間の手が、加わっているとしか考えられないのだ。
可愛岳(えのだけ)は神秘的で、謎の多い山である。
そして記・紀(古事記や日本書紀)の記述に符合しそうな、伝説がある。
古事記によると、神武大王(じんむおおきみ/天皇)に始まる皇統の五代前に、高天原から光臨したニニギノ命(みこと)が、「日向の高千穂のくしふる峰に降りた」と記されている。
これをもって、高千穂の天孫降臨とする解釈も多い。
すると、それ以前は神ばかりいて、人はこの世に居なかった事になる。
我輩は、この地に降(光)臨したのが天照大神なら、「判り易い」と思っている。
神話の国・日向国(宮崎県)の北東部にある北川町(東臼杵郡)の地に可愛岳(えのだけ)はある。
征服(侵略)部族の王達が天孫降臨伝説で神格化された象徴的な記述が、古事記・日本書紀に残った山がこの可愛岳(えのだけ)である。
標高七百二十八メートルの可愛岳(えのだけ)にはニニギノミコト(アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギ)御陵墓伝説があり、また日本書紀には、初代・神武大王(おおきみ/天皇)の五代前の先祖天孫・ニニギの命(みこと)が亡くなられた時、「筑紫の日向の可愛(えの)の山陵に葬りまつる」と記されている。
学術的証明(確証)までは至らないとの事だが、ニニギノ命の御陵墓伝説は、地元で数百年も続く「御陵墓祭り」と伴に受け継がれて居て、これは「重みの有る伝承」と言える。
しかし、この天孫降(光)臨伝説は、朝鮮半島の加耶(伽耶諸国)の建国神話である「加耶国」の始祖・首露王(スロワン/しゅろおう)が「亀旨峰(クジボン)に天降る話・・・と似ている」との指摘が在る。
つまり、「記紀神話(古事記・日本書紀)」の一部は、広域倭の国時代に朝鮮半島・加耶(伽耶諸国)から持ち込み輸入された伝承を採用し加工して記載した疑いが強いのである。
天孫降臨伝説が終焉を迎えたのも実はこの伝説の地・可愛岳(えのだけ)だったが、その話はこの物語を最後まで読んでいただければ判る。
それにしても、この真東から日が昇るこの日向(宮崎県)の国地で天孫降臨伝説が起こり、遥か悠久の時を経て天孫降臨伝説が同じその地で幕を閉じるとは、不思議なめぐり合わせである。
尚、三兄妹・三貴神(ウズノミコ)である天照大神、月読命、スサノウ(須佐王)は、「記紀(古事記・日本書紀)神話」に於ける「虚)」の伝承的存在である事を心して分けて扱うべきである。
いずれにしても、「古事記・日本書紀編纂」の目的は皇統の神格化であるから、その目的の為に実史にアレンジを加えて成立させた物語である。
【日本の伝説リスト】に転載文章です。
◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。
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