崇峻大王(すしゅんおおきみ/天皇)弑逆(しぎゃく)事件
崇峻大王(すしゅんおうきみ/第三十二代天皇)は、倉梯柴垣宮(くらはししばがきのみや/現・桜井市倉橋) を造営してその宮居に住まう。
崇峻大王(すしゅんおおきみ/天皇)は泊瀬部皇子(はつせべのすめらみこと)の頃から大伴糠手の娘の小手子(おてこ)が妃だったが、即位して後に蘇我馬子の娘の河上娘(かわかみのいらつめ)が入内(にゅだい)して内裏(だいり)に納まっていた。
しかし四年後、蘇我馬子に部下の東漢(やまとのあや)一族の直駒(あたいこま)と言う者を刺客として崇峻宮に送り込まれ、崇峻大王(すしゅんおおきみ/天皇)は暗殺される。
そして真贋の程は定かでないが、崇峻大王(すしゅんおおきみ/天皇)暗殺の実行者・東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)が崇峻宮を襲った時に蘇我馬子の娘の河上娘(かわかみのいらつめ)を陵辱した或いは河上娘(かわかみのいらつめ)と密通したとの理由で東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)が蘇我馬子に討ち取られてしまう。
これほど明確に記録されている天皇暗殺は類を見ないもので、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)と河上娘(かわかみのいらつめ)との事は、口封じの口実とも考えられる。
この崇峻大王(すしゅんおおきみ/第三十二代天皇)暗殺話は五百九十二年の事件だから、百二十~百三十年も経た桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)の御世に成って余りにも克明に記述されている所から、その後の「乙巳の変(いっしのへん)(蘇我入鹿/そがのいるか・暗殺と蘇我氏滅亡)」に対し、いかに歴代蘇我氏が「横暴なふるまいをしていた」と言う事を印象着ける為の複線として書かれている疑いもある。
大化の改新(たいかのかいしん)は、中大兄皇子(後の天智大王)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変(いっしのへん)の後に行われた政治改革を言う。
同時にこの事件を記する事で、皇統の正統性をもアピールして居るのかも知れない。
衰退した加羅系・物部氏(新羅派)とは反対に、大連(おおむらじ)・物部守屋を破った高句麗系・蘇我氏は我が世の春を迎える。
蘇我馬子の擁立したのが、崇峻大王(すいしゅんおおきみ/第三十二代天皇)であった。
この戦いで蘇我馬子側に立ち、十四歳で初陣を果たした皇子がいた。
厩戸(うまやど)の皇子(後の聖徳太子)である。
本格的に、飛鳥時代を迎えていたのだ。
◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。
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皇統と鵺の影人
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