南朝方忠臣・明治復権の怪
その留守の間は留守政府(三条実美、西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助、江藤新平ら)が新政府の運営を担い、主なものとしては府県の統廃合(三府七十二県)、陸軍省・海軍省の設置 、学制の制定 、国立銀行条例公布 、太陽暦の採用 、徴兵令の布告 、キリスト教禁制の高札の撤廃 、地租改正条例の布告 などの政策が施行されている。
この頃、南朝方(後醍醐帝方)に与力した楠木正成、新田義貞、北畠顕家、名和長年(なわながとし)らが忠臣として復権され、明治五年の楠木正成(湊川神社)、明治九年新田義貞(藤島神社)、明治十五年北畠顕家(阿倍野神社)と次々に神社が建てられて祀られている。
更に明治天皇の特旨により新田家(新田義貞の子孫、男爵)、名和家(名和長年の子孫、男爵)、菊池家(菊池武光の子孫、男爵)など、南北朝時代に南朝方忠臣であった子孫が、特別の計らいで華族に叙せられている。
維新政府成立直後の未だ新政府の足元も固まらない時に、この力の入れようは何だったのか?
つまり明治維新政府は、南朝方(後醍醐帝方)の復権をかなりの優先事項として取り組んでいた。
この謎は大きい・・・・。
そこで熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)に伝わる良光親王(ながみつしんのう)の末裔を名乗る人物の存在に想い到るのである。
明治維新成立と同時に突然浮上した、江戸期の北朝系天皇の下では賊軍だった南北朝期の南朝方忠義の臣達の物語に、いったい何が込められていたのか?
この事は、明治帝入れ替わり説の一つの検証になるのかも知れないこの疑い、果たして世間が言うように「有り得ない事」なのだろうか?
歴史と言うものは都合良く脚色されるもので、もし明治新政府の勤皇の志士達が国家単位でトリックを構成されれば、例え創り事でもそれを解く事はほとんど出来ない。
事の真贋は定かではないが、明治維新以後急に南朝の正当性も認められ、楠正成や新田義貞が天皇を助けた英雄として祭られたのは、動かす事の出来無い事実である。
この二人は神社になり、戦前、戦中は忠義の臣として、学校で「歌」も歌われていた。
楠木正成(湊川神社・明治五年)、新田義貞(藤島神社・明治九年)、北畠顕家(阿倍野神社・明治十五年)・・・・・・後醍醐天皇(吉野神宮)を始め護良親王(鎌倉宮)、尊良親王(金崎宮)など後醍醐天皇・皇子の神社は四社を数える。
つまり、維新以後南朝方の神社は急激に建立され十四社に及ぶのである。
室町期から江戸期を通じて、皇統は北朝・光明天皇系である。
もし、南朝・大室氏の入れ替わりが無いならば、この明治初期に於ける南朝方旧臣の名誉回復は到底説明が着かない事に留意しなければ成らない。
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明治帝入れ替わり説については内容が微妙な上、記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第五巻をお読み下さい。
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