松平元康(徳川家康)・三河支配権の回復の謎
元康は桶狭間で「義元が討ち取られる」の報を聞くと、すぐさま攻略中の大高城から撤退して祖父・清康の代で確立した三河支配権の回復を志し、今川軍が放棄した三河の岡崎城に入ると今川家からの自立を宣言、西三河の諸城を攻略して三河を手中にする。
三河物語では、駿府の築山御前の元に帰ろうとした元康(家康)を家臣の本多達が止め、岡崎城に入った事に成っているが、岡崎に入城した時の元康(家康)はもう一人の方の竹千代だった。
今川義元の討ち死にを期に、三河松平独立を元康に進言したのは本多達三河(松平)家臣団とされている。
双子のもう一人が入れ替わるタイミングは攻略中であった大高城の本陣と推測され、岡崎城に入城する時は既にもう一人の元康(平手家康)だったのではないだろうか?
元々人間の運命など、確かに先の事は判ったものではない。
人生、これだから占いやら信仰が流行(はよる)のかも知れない。
この時の松平元康(徳川家康)の行動手順が問題なのである。
計算すると、千五百六十年(永禄三年)、桶狭間の合戦で今川義元を破った時点で織田信長は二十六歳、徳川家康は十八歳と言う事に成る。
つまり若干十八歳の若武者が即断で「松平家の行く末を賭けた」と言う事で、家臣達の織田方との内応デキレースで無い限り、松平家臣団がまとまる決断とは思えないのである。
如何に心はやって三河支配権の回復を志そうが、形としては今川から離れた松平元康は下手をすれば織田と今川に挟まれて危険な賭けに出た事に成る。
これは織田信長にして見れば三河一ヵ国手に入れる絶好の機会で、本来なら武将である松平元康に何らかの確信がなければ、この危険な賭けは「余りに無謀な行動」と言える。
しかしながら直前まで今川方の武将として戦っていた織田方の出方を元康はまったく配慮の他で、まるで織田信長と密約でも在ったような疑惑を感じるのは我輩だけだろうか?
現に織田信長は三河に攻め込む事も無く、いずれ厄介な存在になるかも知れない松平元康(徳川家康)の三河再平定を悠然と見守っている。
二年後の千五百六十二年(永禄五年)、松平元康(徳川家康)は義元の後を継いだ今川氏真と断交し信長と同盟(清洲同盟)を結び、翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めている。
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