美濃国争奪戦と第三代国主・斉藤龍興(さいとうたつおき)
その斉藤龍興(さいとうたつおき)が、結果的に国主の器には程遠い人物だったらしい。
美濃国第二代国主・斎藤義龍は、近江の半分を領する戦国大名・浅井久政(浅井長政の父)の養女(近江の方/近江局)を正室に迎えている。
第三代国主・斉藤龍興の生母は定かではなく、龍興は義龍の庶子として生まれるとされるが、生母が近江の方(近江局)と言うのであれば義龍正室の子となり嫡子となる。
龍興・生母と目される近江の方(近江局)方には、「久政の父・浅井亮政の娘ではないか」と言う説が有力とされ、それならば近江の方(近江局)は浅井久政とは兄妹の関係になる。
その斉藤龍興は、千五百六十一年(永禄四年)に父・斉藤義龍の急死により家督を継ぎ稲葉山(岐阜城)城々主となる。
所が、龍興は余りにも素行が悪く、祖父・斉藤道三や父・斉藤義龍と比べ凡庸で年若く、領国運営より遊びに熱心で家臣の信望を得るに至らない。
そうした斉藤家の動揺に乗じて、尾張の織田信長は度重なる侵攻を試みる。
その間に、撃退こそしたものの信長との「森辺の戦い」に於いて重臣(斎藤六宿老)の日比野清実、長井衛安などを失い、有力家臣であった郡上八幡城主の遠藤盛数も病没する。
龍興は美濃侵攻を試みる信長に対処する為、生母・近江の方(近江局)の実家、近江の浅井長政と同盟を結ぼうとした。
しかし織田信長に機先を制されて長政は信長の妹・お市を娶り、信長と同盟を結んで逆に浅井長政までもが美濃を狙って侵攻するようになる。
この時は義龍の時代から同盟を結んでいた六角義賢が浅井領に侵攻した為、長政は美濃攻めを中止して撤退している。
それでも最初の内はまだ有力武将が残っていて、再度侵攻した織田信長と新加納で戦い、家臣の竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)の活躍もあって織田軍を破っている。
しかし事件が起きる。
中々行状を改めようとしない龍興に不満を抱いた美濃三人衆の一人・安藤守就(あんどうもりなり/重治の舅)と竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)に拠って僅かな手勢で居城の稲葉山城を占拠され、龍興は鵜飼山城さらに祐向山城に逃走した。
この時は安藤守就(あんどうもりなり)と竹中重治(たけなかしげはる)が龍興に稲葉山城を返還したので龍興は美濃の領主として復帰出来たが、この事件により、斎藤氏の衰退と龍興の統率の無さが世間に知れ渡ってしまう。
走行している内に織田信長は着々と美濃侵攻の圧力を強め、小牧山城築城により圧力が掛かった東美濃に於いては織田氏の縁戚となる遠山氏がなどの影響力も在り、有力国人領主である市橋氏、丸毛氏、高木氏などが織田氏に通じるように成って行く。
決定的だったのは、西美濃三人衆の稲葉一鉄や氏家卜全、安藤守就らが信長に内応し、頼みだった大叔父の長井道利も逐電(死去説も有り)するなどの悪条件も重なった中、遂に稲葉山城を信長に拠って攻め落とされ、龍興は伊勢長島へと逃亡する事になる。
その後龍興は、美濃斉藤家の再興を図って一向宗と共闘したり、越前朝倉氏・朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼って居候をするなど流浪を重ねたが、再び大名として美濃に返り咲く事も無く朝倉軍が織田軍に敗れて刀禰(根)坂戦い(とねざかのたたかい)で追撃を受けた際に戦死している。
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皇統と鵺の影人
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