北近江小谷城・浅井攻め
時折木漏れ日の陽光が降り注ぎ、原生林が風にザワザワとざわめく街道を織田信長と徳川家康の大軍勢が粛々と行軍する。
物見の知らせは逐一入って来ていたが、浅井長政は各要衝に小軍勢を裂き本隊は早々と篭城を決めて朝倉勢の援軍を待っていた。
暫し小谷城で織田勢の攻撃を持ち堪え、朝倉勢の援軍を待てば勝機もある。
浅井長政は朝倉義景に援軍を要請、義景は二万の軍で駆けつけるが織田の軍勢が北近江の出城を落とし始めると、義景は交戦意慾を失いまともに交戦もしない内に越前に撤退を始めた。
好機と見た信長は篭城を決め込む浅井勢を後回しにして、逃げる朝倉勢を追撃して越前一乗谷城へ兵を進めた。
義景が近江から逃げ帰った時、朝倉勢の敗走を知った一乗谷城は既にも抜けの殻で、家臣は余りのボンボンぶりに義景を見限って逃げ出していた。
逃げ帰って一乗谷城に在った朝倉義景も支え切れないと見て東雲寺、賢松寺と逃げ回るが家臣(従兄弟の朝倉景鏡)の裏切りにあって自害し、朝倉家も滅亡する。
信長の軍勢は、逃げる朝倉勢を追撃して越前一乗谷城の戦いで滅亡させた後、軍勢を近江に返し浅井氏攻めに取り掛かった。
頼みの同盟相手朝倉勢の滅亡に、もはや浅井長政に反撃の手段は無い。
為す術も無く信長の大軍によって一方的に勢力範囲を削られるのみで、徐々に追い詰められて行く。
ついに本拠の小谷城(滋賀県湖北町)が織田軍に囲まれる。
しかし信長は一気に小谷城を攻撃せず、不破光治、木下秀吉(後の羽柴秀吉)なども使者として送り何度も降伏勧告を行っている。
信長は長政を高く評価していたようで、降伏した後は「大和へ新領地を与える」とまで破格の条件を出している。
その信長の配慮も虚(むな)しく長政は断り続け、最終勧告も決裂して長政は正室の市を子供達と共に織田陣営に帰還を命じ、その安全を見届けてから父の久政と共に自害している。
お市の信長の陣営帰還に際しては、浅井・織田の両軍ともに「一切の攻撃をしなかった」と伝えられている。
結果的に、浅井家との婚姻は政略結婚の形になったが、我輩は信長が浅井長政を、「本気で弟にしたかった」と信じたい。
それが、信長だからである。
【第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくる」<=このブログのランキング順位確認できます。by mmcjiyodan | 2009-06-16 00:43