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福島正則(ふくしままさのり)

石田三成と感情も露に対立した福島正則(ふくしままさのり)は、尾張国(現在の愛知県海部郡美和町)で生まれている。

正則の母が「豊臣秀吉(日吉丸/木下藤吉郎)の叔母だった」と伝えられ、その縁で「幼少より秀吉に仕えた」とされるが、それらは後の記述で詳細は不明である。

織田信長の弔い合戦となった明智光秀との山崎の戦いで軍功をあげ、五百石の知行を与えられ、翌年の織田家中主導権争いとなった柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取る大功を立てて賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)の中でもその武功第一と賞され、五千石を与えられた。

その後も福島正則は秀吉の主要な合戦の多くに参戦し、九州征伐の後に伊予国今治十一万石の大名に封ぜられている。

やがて日本全国を統一して豊臣政権が誕生すると、千五百九十二年(文禄元年)朝鮮半島・中国大陸に進出する野心を持った秀吉が「文禄・慶長の役」を起こす。

福島正則は、文禄の役では戸田勝隆・長宗我部元親蜂須賀家政生駒親正・来島通総などの諸将を率いる五番隊の主将として出陣、京幾道の攻略にあった。

この朝鮮出兵の功で、正則は千五百九十五年(文禄四年)に尾張国清洲に二十四万石の所領を与えられた。

その後朝鮮出兵は一旦和議に向うが、講和が決裂して第二次朝鮮出兵(慶長の役)が起こり、この出兵最中の千五百九十八年(慶長三年)太閤・豊臣秀吉が病死すると朝鮮での戦闘は中止され、遠征軍が引き上げて来る。

所が武闘派の福島正則や加藤清正は、官僚治派の石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪化していた。

豊臣秀吉没年の翌年に、五大老の一人として豊臣政権安泰に尽力し徳川家康を牽制していた前田利家が病没すると、福島正則は朋友の加藤清正黒田長政(くろだながまさ)と共に三成を襲撃するなどの事件も起こし、この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意している。

その経緯から正則は家康と昵懇(じっこん)の仲の秀吉恩顧大名の一人となる。

その為、これは諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反するものだったが、姉の子で正則の養子になっていた正之と家康の養女・満天姫との婚姻を実現させ、徳川家と福島家は縁戚の体を為すに到っていた。

勿論、福島正則や盟友・加藤清正等の徳川家康に組した原因は、石田三成との確執ばかりではない。

福島正則・加藤清正共に豊臣秀次小早川秀秋等と同様に、若い頃から北政所「おね(ねね)」の世話に成り、北政所を母の様に慕っている。

その長年連れ添った北政所(おね/ねね)は勿論の事、多くの側室に子が為せなかった主君・秀吉が、淀君(よどぎみ/浅井茶々)にだけ二人(一人は夭折)も子を為した事には疑念を持ち、豊臣秀頼が秀吉の実子で有る事には最後まで得心が行かなかった事も、東軍・家康方に組した要因だった。

福島正則(ふくしままさのり)の関が原】に続く。

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by mmcjiyodan | 2009-06-18 04:50  

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