加藤清正(かとうきよまさ)
智勇兼備の名将として知られている加藤清正(かとうきよまさ)だが、武将の側面として特筆すべき能力を備えていた。
清正は、藤堂高虎(とうどうたかとら)と並び称される築城の名手としても知られているが、この辺りにその謎解きのヒントがある。
清正は、重臣に登用した飯田覚兵衛、大木土佐らと穴太衆(あのうしゅう/石工衆)を用いて熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わっている。
また、清正は領内の治水事業にも意欲的に取り組み、その土木技術は非常に優れており肥後の領国(熊本県内)には現在も清正による遺構が多数存在して四百年後の現在も実用として使われている。
その清正の築城・土木技術は何処から来たのだろうか?
加藤清正(かとうきよまさ)は、鍛冶屋を営む父・加藤五郎助(清忠)と母・伊都の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた。
この母・伊都が問題で、秀吉の生母である大政所の「従姉妹(あるいは遠縁の親戚)で在った」とされ、つまりは清正が秀吉とは血縁関係にあるところから同様に土木技術を持つ集団の長の一族だったのでは無いだろうか?
千五百七十六年(天正四年)、豊臣秀吉が丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらい受けて木下姓を羽柴姓に改め織田家内で頭角を現した頃、加藤清正は秀吉の遠戚として秀吉に仕え、百七十石を与えられている。
秀吉の土木技術はつとに有名で、備中国に侵攻し毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻めに追い込むなど、三木の干殺し・鳥取城の飢え殺しと城攻めの名手・秀吉の本領を存分に発揮しているのだが、この中に若き日の加藤清正の姿が在ったのである。
千五百八十二年(天正十三年)明智光秀が本能寺の変を起こして織田信長が死去すると、秀吉の弔い合戦・山崎の戦いに清正も参加して光秀に圧勝する。
その翌年、柴田勝家と秀吉の雌雄を決する賤ヶ岳の戦いで「敵将・山路正国を討ち取る」と言う武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」の一人と並び称されて、三千石の所領を与えられている。
その後も秀吉の命に従い各地を転戦して数々の武功を挙げ、千五百八十二年(天正十三年)に秀吉が関白に就任すると同時に従五位下・主計頭(かずえのかみ)に叙任され、翌年の九州征伐の後に肥後の半国・十九万五千石を拝領して熊本城主となる。
尚、加藤清正(かとうきよまさ)は、藤原北家・利仁流斎藤氏の枝・加藤景廉(かとうかげかど)の末裔を自称するが、証明する証拠は乏しく出自は証明されていない。
【加藤清正(かとうきよまさ)の石田三成・小西行長との確執】に続く。
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by mmcjiyodan | 2009-06-20 14:35