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大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・冬の陣(一)発端

関が原の合戦の後、天下の形勢は勝利した徳川家に大きく傾き、朝廷は徳川家康を征夷大将軍に任じて武門の長と認め、関白・豊臣家の天下への影響力は急速に衰えつつ在った。

大坂の役(おおざかのえき)は、千六百十四年(慶長十九年)の冬から千六百十五年(慶長二十年)夏に掛けて、徳川家の江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした戦いである。

一般には「大坂の陣(おおざかのじん)」とも呼ばれ、大坂冬の陣(おおざかふゆのじん)と大坂夏の陣(おおざかなつのじん)をまとめた呼称である。

千六百十一年(慶長十六年)、御所では後水尾天皇が後陽成天皇の譲位を受けて即位する。

この即位に際して上洛した徳川家康は豊臣家二代・豊臣秀頼の上洛を求め、二条城での秀頼との会見を要請する。

秀頼が二条城に出向いて家康と会見すれば天下に豊臣家の服属を示す事になる為、豊臣家内では反対もあったが、加藤清正浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は何とか実現する。

この年から徳川家康は江戸に二代将軍・徳川秀忠の幕府を置いたまま二条城を居城に二元政治を始め、家康は在京の大名二十二名を二条城に招集させて「幕府の命令に背かない」と言う誓詞を提出させ、その翌年(慶長十七年)になると東北・関東などの大名六十五名からも同様の誓詞をとっている。

この時点で、家康は豊臣家の討伐を選択していたのだ。

加藤清正や浅野幸長らの助力で秀頼が二条城に出向いて家康と会見する二条城の会談が実現し、両者の緊張は緩和したものと思われたのだが、二条城の会談直後の慶長十六年には浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正が、慶長十八年に成ると池田輝政浅野幸長が、そして慶長十九年には家康に次ぐ大老として豊臣家の後ろ盾となっていた前田利家の前田家を継承した二代・前田利長が亡くなる。

百万石の大々名・前田利長が亡くなると、秀吉恩顧大名の主力のほとんどが代替わりと共に徳川家に臣従するか改易減封になって頼るべくも無く豊臣家は孤立して行く。

ただ大阪城の金蔵には、太閤・秀吉が溜め込んだ莫大な軍資金があった。

孤立に焦った豊臣家は、資金を使って幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり兵糧や浪人を集めだして幕府との対決姿勢を前面に押し出し始める。

実はこうした緊張状態を、だれよりも待っていたのが家康である。

勿論家康も戦の準備は怠らず、大阪城攻略の兵器として国友鍛冶に大鉄砲・大筒の製作を命じると共にイギリスやオランダに対し大砲・焔硝・鉛(砲弾の材料)の注文を行っている。

準備は整えつつ在ったが、家康はきっかけを探していた。

今後諸侯の上に立つ将軍家の立場として、主家筋である豊臣家を討つ事は秩序の否定に繋がり跳ね返って来ないとも限らない。

もはや「きっかけ待ち」だった家康は、主家筋である豊臣家を討つ事の倫理的な問題をどう解決すべきか苦悩していた。

そのきっかけとして目を着けたのが、「方広寺鐘銘事件」である。

こうした状況下で、西国大名五十名から「幕府の命令に背かない」と言う誓詞をとって家康のもくろみは着々と進んでいた。

片桐且元・貞隆は大坂城を退去し、相前後して秀頼に近侍していた織田信雄、石川貞政なども退去するに到って期が熟すと、いよいよ家康は諸大名に大坂城攻撃を宣言し、大坂冬の陣が始まっている。

大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・冬の陣(二)戦闘】に続く。

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by mmcjiyodan | 2009-06-23 04:16  

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