大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・冬の陣(三)和議
そして投降を促す矢文から六日目、幕府方全軍より一斉砲撃が始められる。
北方の備前島(都島区網島町)方面だけで大筒百門と石火矢が本丸北側の奥御殿に発射され、南方の天王寺口(茶臼山)からは本丸南方の表御殿千畳敷に目標を定めた砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。
この砲撃では国友製三貫目の大砲が用いられており、またイギリスより購入したカルバリン砲四門やセーカー砲一門、つい最近兵庫に到着し漸く間に合ったオランダ製四・五貫目の大砲十二門も含まれていた。
この砲声は京にも届き、「その音が途切れる事はなかった」と伝えられている。
徳川方が奥御殿や表御殿を砲撃する為に接近して来たので、豊臣方はその近接する徳川方に激しく銃撃する。
当初、寄せての防御が竹束のみだった為にその銃撃で徳川方に三~五百の死傷者が出たが、徳川方が築山・土塁を築いた為に豊臣方の鉄砲の効果は激減している。
豊臣方はこの幕府方の激しい砲撃に対抗して砲撃したり、塙直之が蜂須賀至鎮に夜襲をしかけ戦果をあげたたりしたが、以前劣勢を覆す事ならず、評定の結果、投降を促す幕府方の矢文に応じて和議する事を決する。
戦闘の経過で豊臣方は兵糧に加え弾薬の欠乏が進み、また徳川方が仕掛けた心理戦と今までの常識を超える飛距離を持つ輸入したばかりの新型大砲に拠る砲撃で櫓・陣屋などに被害を受けて将兵は疲労し、士気は衰えを見せていた。
特に豊臣家で主導的立場にあった淀君は、幕府方の本丸への砲撃で身近に被害が及び、頑なだった態度を軟化させて和議に応じる気に成た。
織田有楽斎(長増・ながます/織田信長の実弟)を通じて豊臣方との和平交渉が始まり、有楽斎と治長が本多正純、後藤光次と講和について書を交わしている。
交渉を始めて十日余り、淀君が人質として江戸に行く替わりに篭城浪人の為の加増を条件とした和議案が豊臣方より出されるが、和議は一時の時稼ぎである考えの家康はこれを拒否する。
徳川方の京極忠高の陣に於いて、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀君の妹である常高院(京極高次の正室/浅井初)との間で行われた和議交渉の場で家康が提示した講和の条件は、絶妙だった。
幕府方は豊臣秀頼の身の安全と本領の安堵と城中諸士についての不問を約し、その代わり大阪城は本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める城割(城の破却)が主たる条件で、「今後の抵抗は無い」と形にする事である。
また秀頼・淀殿の関東下向を免じ、淀君を人質としない替わりに「大野治長または織田有楽斎より人質を出す事」として和議は成立している。
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皇統と鵺の影人
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