大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・夏の陣(二)大阪野外戦
その頃豊臣方では和平交渉の当事者・大野治長が城内で襲撃される事件が起き、内部の混乱が露呈していた。
名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われ、家康はその足で上洛し二条城に入った。
この頃、関が原合戦での遅参の失敗経験を持つ二代将軍・徳川秀忠は藤堂高虎に対し、自分が大坂に到着するまで開戦を待つよう藤堂からも「家康に伝えてくれ」と依頼している。
四月下旬に、関東の軍勢を従えた秀忠は無事二条城に到着し、家康と本多正信・正純父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議を行った。
此度の情勢は、前回の大坂冬の陣(おおざかふゆのじん)と比べ遥かに有利である。
大坂城は本丸を残して丸裸であり、兵力も二万ほど減っていて八万弱と篭城戦など出来る状態ではない。
家康は集結した十五万五千の軍勢を二手に分けて、一方は河内路から、いま一方は大和路から道路の整備と要所の警備を行いながら大坂に向かう事を命じた。
この二手の他、紀伊の浅野長晟にも南から大坂に向かうよう命じている。
交渉が決裂し、再びの開戦は避けられないと悟った豊臣方は、丸裸にされた大坂城では籠城戦は不利と判断したとされ、積極的に討って出る作戦を採用している。
豊臣方は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて、筒井定慶の守る大和郡山城を落とし付近の村々に放火その二日後には徳川方の兵站基地であった堺を焼き打ちする。
この大野治房勢、一揆勢と協力しての紀州攻めを試みるが、先鋒の塙直之、淡輪重政らが単独で浅野長晟勢と戦い討死してしまう。
その後、大野勢は浅野勢と対峙しつつ、堺攻防戦を続けている。
五月に入って戦闘が本格化し、幕府方三万五千が大和路から大坂城に向かって来るところを豊臣勢が迎撃した道明寺・誉田合戦が起ている。
しかしこの迎撃、寄せ集めの軍勢である豊臣方は緊密な連絡を取る事が出来ずに、後藤基次隊二千八百が単独で小松山に進出してしまい、伊達政宗、水野勝成ら二万以上の敵勢に集中攻撃を受け、奮戦するも基次は討死し隊は壊滅する。
次いで到着した明石全登・薄田兼相(すすきだかねすけ)ら三千六百の豊臣方も、後藤基次隊を壊滅させて小松山を越えた幕府方二万と交戦し、薄田兼相らが討死した。
この小松山の戦闘に、更に遅れて真田信繁(幸村)、毛利勝永ら一万二千の豊臣方が漸く到着し、真田隊が伊達政宗隊の先鋒片倉重長隊の進軍を押し止める。
そうした小松山道明寺・誉田合戦の激戦の他、八尾・若江合戦が起こっている。
河内路から大坂城に向かう徳川本軍十二万を、豊臣方・木村重成の六千と長宗我部盛親、増田盛次ら五千三百の兵が迎撃している。
まず長宗我部隊が霧を隠れ蓑に藤堂高虎隊五千を奇襲し、藤堂一族その他多数の首を獲ったが、幕府方の援軍に阻まれ後退中に追撃を受け長宗我部隊は壊滅する。
木村重成も藤堂隊の一部を破った後、井伊直孝隊三千二百らと交戦に入り激戦の末に重成は討死した。
いずれにしても幕府方は大軍で、豊臣方は意地を見せたが大勢は幕府方優勢で戦闘は推移している。
真田信繁(幸村)、毛利勝永ら一万二千の豊臣方は、小松山で幕府方大和路隊三万五千を押し止めていた。
しかし豊臣方は八尾・若江での敗戦の報を受け、後藤隊・薄田隊の残兵を回収して後退を余儀なくされ、大坂城近郊に追い詰められている。
この豊臣方の撤退を、幕府方も連続した戦闘に疲弊した為に追撃を行わなかった。
【大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・夏の陣(三)大阪城落城】に続く。
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【第四巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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