文禄・慶長の役(朝鮮征伐)
秀吉の「朝鮮及び中華帝国の侵略」と言う野心の背景には、武将達を束ねる為の求心力の確保である。
主君・織田信長も、頭角を現すまではその「お血筋」を求心力に後押しをされて戦国の一国を手中にした。
信長の場合は、血筋の他働きに応じた恩賞と所領を与える「お取り立て」が、多くの将兵を傘下に置く求心力だった。
しかし豊臣秀吉の場合は、所詮血筋と言う求心力も持たない為に信長の発想受け売りだけだったので、天下が統一された桃山期に武将達にその恩賞と所領を与え続け、己への求心力を続けるには他国の侵略に手を染めるしかない。
つまり豊臣秀吉が織田信長から学んだ部下の掌握術は覇権を握るまでの途上の事で、領土を切り取り分け与えて臣従させる事だった。
矛盾する事に、秀吉が天下を掌握した時点で切り取る領土は国内には無かった。
天下統一後(天下布武の達成後)の事は、織田信長がどうしょうとしていたのか秀吉は聞いては居無いし信長が亡くなった後、彼のやる事は見る事も出来ない。
そして、唯一秀吉を導ける弟の大納言・豊臣秀長は、この世に居なかった。
多くの武将が秀吉に臣従して来た背景にあるのが所領の加増(つまり分け前)で、日本中を統一した秀吉が武将達に分け与える土地を確保するには、無謀で在っても国外に打って出る以外に無かったのかも知れない。
人間は、一度成功するとその成功の記憶に固執する。
そして危険な事に、その条件や環境が揃わなくても、その成功の記憶に頼って無謀な決断を下す。
朝鮮及び中華帝国の侵略を目的とした文禄・慶長の役(朝鮮征伐)の実行である。
或いは織田信長の天下布武の最終ビジョンの中に「朝鮮及び中華帝国の侵略」があり、秀吉はその事を信長から聞いて居たのかも知れない。
千五百九十二年(文禄元年年)、秀吉は子飼いの大名・加藤清正、福島正則、小西行長、黒田長政、浅野幸長らを主力に、十六万の大軍勢を編成して朝鮮半島に送り出した。
当時の李氏朝鮮王朝は然したる軍事力を持っては居なかったので、当初遠征軍は勝利を重ねて半島の南部を簡単に制圧占領している。
しかし他国の侵略は、国内の様には簡単ではない。
国内なら戦は氏族同士の争いだが、他国ともなると民族意識が強く容易に屈服はしないばかりか、民族が団結して民衆まで敵に廻る。
従って、朝鮮半島進攻軍は泥沼に陥る事になる。
その後朝鮮の宗主国・明帝国の軍勢が南下して来て一進一退の攻防となり、小西行長と石田三成が謀って「明帝国」の降伏を偽り一度講和に持ち込むが、互いに勝利を思い込んだ講和交渉がまとまる訳も無く、決裂して秀吉は千五百九十七年(慶長二年)に十四万の大軍勢を持って二度目の出兵を命じている。
この二度に渡る半島に対する派兵を、第一次出兵を文禄の役、第二次出兵を慶長の役と呼んでいる。
後のベトナム戦争やイラク戦争に於ける米軍の様相で、その苦戦の泥沼に秀吉子飼いの大名達でさえ不満が鬱積して行った。
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