山窩(サンカ・サンガ)
そこへ破壊混乱の氏族が武力を持って征服に来た。
この時から、まったく違う価値観を持った氏族と良民(民人)・非人(賎人)、つまり破壊混乱の氏族と調和の民が同居する二重国家体制の日本列島が徐々に形ち作られて行く事に成る。
日本人は、原日本人系縄文人と比較的後期の渡来系との同化二重構造の中で、混血が今でもまだ続いている。
日本列島の原日本人系縄文人(原ポリネシア系)が「自然共生主義」である所から、その信仰基盤に自然神が多数存在し、後期の渡来系が同化に際してそれを採用(治世に利用)して八百万(やおよろず)の神が成立した。
その混血同化の証明が、ミトコンドリアDNA分析である。
アイヌの人々と沖縄の人々が、人類学的にも分析でも、「縄文人に近くて近縁関係にある」と証明されてはいるが、少なくとも一万二千年以上前には、「別の集団として存在していた」と見られる。
「原日本人系縄文人に近い」とされているアイヌ系と沖縄系に多いタイプの割合が原ポリネシア系であり、日本本土では約二十四%、韓国では約十九%、中国では約十二%である。
わが国には、古来から人別にも記載されない山窩(サンカ・サンガ)と呼ばれる山の民(非定住民・狩猟遊民)が居る。
明治維新以後に戸籍(壬申戸籍 /じんしんこせき)をつくるまで、山窩(サンカ・サンガ)は、治世の外に存在した自由民であった。
この山窩(サンカ・サンガ)は、九州から東北地方まで分布している所から、比較的後期の渡来系勢力に押されて、同化を拒み、山中に逃げ延びた「内地の原日本人系縄文人(原ポリネシア系)の一部ではないか」と考えられる。
つまり、先住民族(鵺、土蜘蛛、鬼、の類)の同化から取り残された残存の一部が、山窩(サンカ・サンガ)でないと、存在の理由が見当たらないのである。
勿論、山窩(サンカ・サンガ)にも渡来系勢力との接触はあるから、完全に文明から取り残された訳ではない。
山に篭った群れ、平地に降りて来て一郭に集団で居留したもの、その中間の存在もあった筈である。
戦国期~安土桃山期に伸し上がった土木工事や築城術、土木戦術、輜重(しちょう/後方支援)運輸術など異能の勢力が、豊臣秀吉を始めとする蜂須賀正勝(小六)、加藤清正、藤堂高虎などの別の素性を出自とする土豪集団が一大勢力を築いた事も、彼らが平地に降りて来た山窩(サンカ・サンガ)集団からの出自を疑わせが、その話は追々語る事にしよう。
そして彼ら山に篭った群れの純粋な山窩(サンカ・サンガ)の生活にも、文明や道具の一部は取り入れられたが、生活様式だけは頑なに守って独自の生活圏を山岳地帯につくり、言わば祭らわぬ人々(統治されざる人々)として存在し、それが明治維新の少し後まで無人別集団として存在して居たのである。
江戸期の差別制度は、明治維新後の部落民差別として残って行く。
狩猟の民である先住民(蝦夷族/エミシ族)=山窩(サンカ・サンガ)は、仏教の教えである「殺生の禁止」を生業としていた。
しかし大和朝廷では、仏教を国家統一の為に採用して啓蒙していたので、「殺生の禁止」を生業としていた山窩(サンカ・サンガ)は、永く非主流の狩猟遊民として定住もままならない存在だった。
この歴史現象を公平に判断すると、この仏教の教えである「殺生」を禁じた教えを渡来民族政府だった大和朝廷が採った事は、日本列島運営の政治的な計算も在った筈である。
正直大和朝廷政府は、原住民族である先住民(蝦夷族/エミシ族)の抵抗には平安末期まで苦労していた。
それでも時を費やしながら、先住民(蝦夷族/エミシ族)の末裔である賤民(せんみん)奴婢(ぬひ)を含む平民にも、仏教の教えは徐々に定着して行った。
現にこの「仏教化政策」は成功し、四足動物の建前上での食肉禁止は明治維新までほぼ国民の多数合意されていた。
その食肉禁止の文化も、明治維新の文明開化で薄れて行った。
基を正すと歴史経過の中で取り残されたに過ぎない一部の部族文化を、「自分達と価値観が違うから」と差別するは、最初から間違っていたのだ。
但し一部の賤民(せんみん)部落に残った四足動物処理技術文化への差別は、一部の心無い人々の意識の中に現在でも残っているのは残念である。
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皇統と鵺の影人
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