黒俣(すのまた)一夜城(秀吉出世城)
しかし信長の織田家は格から言えば守護代家の家老相当格で、まだ弱小領主だから娘を嫁がせてまでの政略結婚の理由としては説得力に欠ける。
何故なら、斉藤道三は凄まじい下克上を経て、美濃一国を手に入れた男で有る。
斉藤道三が、信長に「何か」を見たからこその、縁談ではなかったのか?
それで無ければ、息子を差し置いて信長の手元に、道三からの美濃一国の「譲り渡し状」など残る訳が無い。
信長はこの道三の「譲り渡し状」を根拠に、美濃の豪族へ「味方に寝返るよう」書状を送り、実父・道三を討ち、美濃の国主に納まった斉藤義龍と対峙、度々美濃に攻め込む。
木下藤吉郎(秀吉)の「黒俣一夜城」は、この時のエピソードである。
長良川西岸、犀川が合流する所に墨俣(すのまた)と呼ばれる土地が在る。
言わずと知れた、「豊臣秀吉の出世城が在った」とされる所である。
内陸に在った美濃国にとって、水運の要衝・墨俣(すのまた)に砦を築かれる事は、戦略上、交通上重要な拠点ではあった。
秀吉の墨俣(すのまた)一夜城の舞台であるが、実はこの話は江戸中期になって捏造(ねつぞう)されたものである。
墨俣(すのまた)城に関しては、築城主は不明とされているが中世からその存在の痕跡がある。
つまり「木下藤吉郎(秀吉)の手による築城」と言うよりも、、山窩(サンカ・サンガ)系独立集団の土豪・蜂須賀小六正勝率いる「川並衆」の勢力下に在ったものを、藤吉郎(秀吉)への忠誠の証として形式上「信長に献上した」と言う可能性が高い。
お館様・織田信長が本格的に美濃国攻略を決意した時、織田勢としては足掛かりになる砦が美濃に欲しかった。
軍儀で「何か策は無いか?」と問われて、藤吉郎(秀吉)は「恐れながら」と末席から名乗り出た。
藤吉郎(秀吉)は、独立集団・蜂須賀小六が率いる「川並衆千五百」とその本拠地・墨俣(すのまた)砦を「傘下に引き入れて見せる」と言上し、信長から「成功したらそのまま守将に任じさせる」と約を取り付けていた。
砦の主は藤吉郎(秀吉)に旧知の蜂須賀小六で、話を着ける自信は充分にある。
藤吉郎(秀吉)は長良川の水嵩(みずかさ)が増す前に浅瀬を見つけ、河を渡って墨俣(すのまた)の砦に辿り着いた。
そして藤吉郎がどんな手を使ったのかは定かでないが、蜂須賀小六以下蜂須賀党をことごとく口説(くど)き落として傘下に入れている。
木下藤吉郎(豊臣秀吉)は蜂須賀小六を口説(くど)き落として傘下に入れると、墨俣(すのまた)砦を突貫工事で整備して城の体裁を整えている。
この墨俣の織田方小城の存在が美濃・斉藤勢に取っては厄介この上ないもので、美濃・斉藤家臣団に大きな動揺を与えたのは事実である。
それにしても蜂須賀小六正勝は、何故か当時まだ「織田家家臣の末席に在った」と思われる木下藤吉郎の口説(くど)きに易々と乗り、まるで以前からそうであったがごとく臣従しているのは謎であるが、その話は後ほど解き明かす事にする。
父である美濃国々主・斉藤道三を追い出し、その後討ち取って国主の座を手に入れた斉藤義龍は、追い出された道三からの美濃一国の「譲り渡し状」を受け取っていた織田信長と対立し、両者は再三小競り合いを繰り返している。
その後斉藤義龍は病死、息子・斉藤龍興が十四歳で家督を継ぐが、若輩の当主の為に斉藤家は求心力を失い、道三の「譲り渡し状」が勿怪(もっけ)の理由と家臣の寝返りが激しくなって、美濃は信長の手に落ちたので有る。
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