伊達政宗(だてまさむね)(3)大成編
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伊達正宗にとって重石となっていた豊臣秀吉が文禄・慶長の役(朝鮮征伐)の第二次出兵「慶長の役」の最中に病死する。
奥州に大国を領しながら豊臣政権下で大老職にも就けられない冷遇を受けていた正宗にして見れば、継子・豊臣秀頼の行く末は秀吉から何も頼まれては居ない。
豊臣秀吉と言う重石が取れた政宗は秀吉の遺言を破り、五大老・徳川家康と政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させ反豊臣色を鮮明にして行く。
千六百年(慶長五年)に徳川家康が会津領主・上杉景勝に謀反容疑をかけ上杉討伐の出陣を行うと、政宗は家康に従軍して上杉の支城白石城を陥落させるなど活躍したが、家康の留守中に五奉行の石田三成らが家康に対して毛利輝元を総大将として挙兵し為、小山まで北上していた家康は急遽反転して西へ向かった。
この際家康は、政宗に上杉景勝を会津に釘付けにさせて置く為に「新たに四十九万石の領土を与える」と言う百万石のお墨付きを与えるが「和賀一件」の策謀を咎められ四十九万石加増の約束を反故にされ、政宗への恩賞は仙台開府の許可と陸奥国刈田郡(白石)合わせて二万石の加増のみに止まっている。
仙台開府の許可を得た政宗は関が原合戦の翌年、千六百一年(慶長六年)に仙台城と仙台城下町の建設を始め居城を移して仙台藩が誕生した。
仙台藩・伊達六十二万石については、後に近江と常陸に小領土の飛び地二万石の加増を受けた事で公称六十二万石とされている。
その後の千六百十三年(慶長十八年)には伊達政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商(太平洋貿易)を企図してエスパーニャ帝国国王フェリペ三世の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造し、家康の承認を得ると支倉常長(はせくらつねなが)ら一行百八十余人を慶長遣欧使節としてヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した。
その慶長遣欧使節派遣の翌年、千六百十四年(慶長十九年)には豊臣家最後の抵抗大坂の役が起こり、政宗は大阪城攻めに参戦して家臣の将・片倉重長が後藤基次らを討ち取り、真田信繁(幸村)の攻勢を受けて立つなど大きな功があった。
しかし関東二百五十万石を領した後北条氏との同盟を破り豊臣秀吉に臣従して後北条氏を滅亡に追いやり、徳川家康に乗り換えて豊臣家の滅亡にも加担した伊達政宗の天下への影響力は一流だった言って良い。
伊達政宗は二代将軍・徳川秀忠、三代将軍・徳川家光の頃まで仕え、千六百三十六年(寛永十三年)五月に江戸で波乱の生涯を閉じている。
政宗亡き後の伊達家は外様ながら徳川家とは姻戚関係を結び、東北の雄藩として明治維新まで永らえ華族令施行により伯爵を賜っている。
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