伊達政宗(だてまさむね)(1)青年編
政宗(まさむね)の伊達家の祖につては、異説もあるが一般的に藤原・山蔭流の待賢門院非蔵人・藤原光隆の息子である藤原朝宗(伊達朝宗/だてともむね)に比定されている。
平安時代末期の武将・伊達朝宗(だてともむね)は中央で官位を持つ藤原北家魚名山蔭流であるとともに常陸国伊佐郡に勢力を張る在地豪族でもあり、源頼朝が挙兵した際には、母方の従兄弟という関係もあってその麾下に馳せ参じた。
奥州合戦に際しては、四人の子息とともに前衛として出陣、敵方の最前線基地である信夫郡の石那坂の城砦を攻略して、大将の佐藤基治を生け捕りとした。
藤原朝宗(伊達朝宗/だてともむね)はこの功によって激戦地阿津賀志山がある陸奥国・伊達郡を賜り、これを契機に伊達を称したという。
奥州(東北)の雄・伊達政宗も、織田信長同様に母に愛されなかった男である。
それも生半端な話ではなく、母・最上義姫は弟・小次郎(政道)が生まれるとそちらを可愛がり、政宗に降りかかった二度の暗殺未遂事件の首謀者が母・義姫だった。
それで止むなく、政宗は弟・政道を自らの手にかけて殺害している。
伊達政宗の母・最上義姫は、出羽国(山形・秋田)の戦国大名・最上義守の愛娘で次の当主・最上義光の妹に当たる。
義姫は、最上家から所領が隣接して対立関係に在った出羽国の(山形・秋田)の戦国大名・伊達家に十六歳で嫁ぎ、三年後の十九歳で伊達家継嗣・梵天丸(政宗)を産んでいる。
或いは政宗の壮絶な戦ぶりは、織田信長同様に母に愛されたくて己の能力を証明したかった事が原動力かも知れない。
政宗(まさむね)は、千五百六十七年の九月に生まれたとするから、豊臣秀吉とは三十歳、徳川家康とは二十四歳も年下になり、政宗誕生の翌年には織田信長が足利義昭を奉じて大軍の兵を率い、畿内を制圧しつつ上洛している。
千五百七十年(元亀元年)の姉川の合戦が政宗が四歳の時で、千五百八十二年(天正十年)六月の本能寺の変当時でも漸く政宗は十六歳で、つまり遅れて戦国期に生まれて来た不運の名武将だったのかも知れない。
千五百六十七年(永禄十年)出羽米沢の米沢城に生まれた伊達政宗(幼名・梵天丸)は、五歳のみぎり疱瘡(天然痘)に罹り右目を失明する。
当時はまだ天然痘を治す治療方法はなく、死の病であった。
政宗は千五百七十七年(天正五年)に数えの十一歳で元服、二年後の十三歳で仙道の戦国大名・三春城主・田村清顕の娘・愛姫を正室としている。
元服から四年、政宗は隣接する戦国大名・相馬氏への侵攻に十五歳で初陣し勝利を収める。
この相馬氏との合戦で見せた政宗の政宗の武将としての素質を見抜いていた父・輝宗は、四十一歳若さで家督相続を伝え十八歳の正宗に家督を譲り伊達家十七代を継承する。
その後正宗は、小手森城主の戦国大名・大内定綱や二本松城主の戦国大名・畠山義継など近隣武将と戦い、反伊達連合軍を形成した佐竹氏・蘆名氏など三万の連合軍を安達郡・人取橋付近で六千に満たない兵力で迎え撃ちかろうじて勝利を納める。
人取橋の戦いに勝利した政宗は正妻・愛姫の実家・田村氏の協力を得て更なる侵攻を行い、千五百八十八年(天正十六年)に安積郡郡山城・窪田城一帯をめぐる郡山合戦にて伊達政宗軍と蘆名義広・相馬義胤連合軍との戦闘で相手国の領土を奪い、現在の福島県中通り中部にあたる地域まで支配下に置く戦国有数の大名となる。
しかし中央では既に豊臣秀吉が天下を掌握しつつあり、朝廷から関白の位を得て関白・豊臣秀吉は関東・奥州(東北)の諸大名、特に関東の後北条氏と奥州(東北)の伊達氏に対して私戦禁止命令を発令した。
所が、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行し、会津の蘆名氏・佐竹氏の連合軍を摺上原の戦い(磐梯山麓・猪苗代町付近)で破りさらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼし戦国大名・白河義親、石川昭光、岩城常隆、大崎氏、葛西氏を服属させ現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部宮城県の南部を領し、南陸奥の諸豪族や宮城県や岩手県の一部を勢力下に置いて支配し、全国的にも屈指の領国規模を築く大々名に成っていた。
【伊達政宗(だてまさむね)(2)苦闘編】に続く。
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