丹羽長秀(にわながひで)
丹羽氏は元々斯波氏の家臣であったが、長秀は千五百五十年(天文十九年)から信長に仕えた。
千五百五十六年(弘治二年)に起きた、織田信長とその弟・信勝(信行)との家督争いから起きた稲生の戦いでは柴田勝家他多くの武将が弟・信勝(信行)方に付く中、丹羽長秀(にわながひで)は最初から信長方に付いて戦い、信長の信頼を勝ち取っている。
その後長秀(ながひで)は千五百六十八年(永禄十一年)、信長が足利義昭を奉じて上洛した際、観音寺城の戦いと呼ばれる南近江の六角氏征伐や斎藤龍興との美濃における戦いで武功を挙げ織田家中で台頭して行く。
長秀(ながひで)は軍事だけではなく、政治面に於いても優れた手腕を発揮して安土城の普請奉行などを務めるなど多大な功を挙げ、信長から近江佐和山城や若狭一国を与えられ家老の席順としては柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられ、織田家の柴田・丹羽の双璧といわれる。
その事から、当時「木下」姓だった木下秀吉(後の豊臣)が双方の字を取って「羽柴」の姓を信長に申請し、丹羽長秀にとっては柴田勝家に並び称されている証で在る為に長秀が秀吉に対し好意を持った逸話もある。
この羽柴秀吉の行為を快く思った丹羽長秀は秀吉の保護者となり、柴田勝家とは対照的にその後の秀吉の天下統一に大きく寄与する。
その後も丹羽長秀(にわながひで)は拡大する織田家中で二番家老の席次待遇を受け続けるが文官扱いで、軍事的な面では独立した軍を持つ柴田勝家・滝川一益・明智光秀・羽柴秀吉などの一段下とみなされ、知行も信長治世の末期には彼らとは大きな開きが生じていた。
本能寺の変当時、長秀は主君・信長の三男・織田信孝(神戸信孝)の四国征伐軍の副将を命じられ三好康長・蜂屋頼隆とともに四国征伐軍(長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)討伐)の出陣の支度をしていた所に出陣直前に本能寺の変が起こる。
長秀は羽柴秀吉の軍に参戦し、山崎の戦いで信孝を補佐して共に戦い明智光秀を討ち、その後の清洲会議でも柴田勝家が押す織田信雄(おだのぶお)に抗して秀吉の主張する信忠の嫡男・三法師君の織田家相続を支持し、結果として諸将が秀吉の織田家の事業継続を認める形となった。
羽柴秀吉が柴田勝家と天下統一事業「天下布武」の実質継承権を賭けた賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、戦後に若狭に加え越前の大半及び加賀二郡を与えられ約百二十三万石の有数の大々名となったがその二年後に病死している。
【丹羽長重(にわながしげ)】に続く。
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