丹羽長重(にわながしげ)
それと言うのも、丹羽長秀の嫡男・丹羽長重は越前国・若狭国・加賀の内二郡百二十三万石万石を相続したのだが、百二十三万石は突出して大封の為に羽柴秀吉には長秀の病死を期に丹羽氏の勢力を削ぐ意志が芽生えていた。
千五百八十五年(天正十三年)に父・長秀が没して家督を相続したばかりの長重(ながしげ)に、賤ヶ岳の戦いの後始末・佐々成政の越中征伐に従軍した際の長重の家臣に「佐々成政に内応した者がいた」との秀吉が嫌疑を掛け、越前国、加賀国を召し上げて若狭一国十五万石に減封の仕置きをし、更に重臣の長束正家や溝口秀勝、村上義明らもヘッドハンティングで召し上げられ、更に二年後の九州攻めの際にも家臣の狼藉を理由に若狭を取り上げられ、丹羽氏は僅かに加賀加賀国松任(現白山市)四万石の小大名に成り下がってしまう。
もっともこの時期、羽柴秀吉は豊臣政権確立の為に盛んに血縁関係の大名を京・大阪の周辺に配置していた為、丹羽氏の百二十三万石はその原資に充てられた匂いがする。
その後丹羽長重(にわながしげ)は、小田原攻めに従軍した功によって、加賀国小松十二万石に加増移封され、この時に従三位、参議・加賀守に叙位・任官されたて小松侍従(小松宰相)と称された。
また長重(ながしげ)は、千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して東軍の前田利長と戦った為に戦後徳川家康から一旦改易の処分を受けているが、三年後に常陸古渡藩一万石を与えられて大名に復帰し、千六百十四年(慶長十九年)からの大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣では徳川方として参戦して武功を挙げ五年後に常陸江戸崎藩二万石に加増移封された。
長重は余程将軍家の覚えが良かったのか、その加増移封の更に三年後に陸奥棚倉藩五万石に加増移封され、更に五年後の千六百二十七年に陸奥白河藩十万七百石に加増移封ぜられて初代藩主となり、白河城を築いている。
【丹羽長秀(にわながひで)】に戻る。
関連記事
【戦国時代(せんごくじだい/室町末期)】に飛ぶ。
【三百諸侯(さんびゃくしょこう)・江戸時代の大名家】に飛ぶ。
【第四巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ】
<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)
未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくる」<=このブログのランキング順位確認できます。by mmcjiyodan | 2009-08-01 01:44