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賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)

千五百八十二年(天正十年)の本能寺の変に拠って明智光秀に主君・織田信長を討たれた織田家臣団では、信長亡き後の家臣団内の主導権争いで跡目争いが起こっていた。

家臣筆頭の柴田勝家と明智光秀を討ち主君・織田信長の敵を取った羽柴秀吉がそれぞれ信長の遺児・織田信孝と亡き信忠の嫡男・三法師君を押して対立したのである。

この清洲会議以後柴田勝家は羽柴秀吉との対立を深め、徳川家康は対立の圏外に居てその行方を見守っている。

正直、双方とも実力者で家康に取って厄介な存在であるから、どちらか片一方が始末されるに越した事は無い。

信長の敵を討った秀吉の勢力が織田家臣団の中で突出し、主家である織田家さえ蔑(ないがし)ろにし始め、それに憂慮した織田家筆頭家老の柴田勝家と羽柴秀吉との間で、千五百八十三年(天正十一年)織田信長の天下統一事業「天下布武」の実質継承権を賭けた両者はついに近江国余呉湖畔で対陣する。

この余呉湖畔の対陣がそのまま後に世に言う「賤ヶ岳の合戦」に成るのだが、この戦いでも柴田、羽柴両者の性格や戦振りがハッキリと現れている。

実は羽柴秀吉の「再び中国大返し型」の得意戦法と柴田勝家の正攻法判断が、この賤ヶ岳の合戦の行方を決めていた。

賤ヶ岳の戦いに勝利した秀吉方で功名をあげた武士達の内、福島正則加藤清正加藤嘉明、 脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元は後世に賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)と呼ばれる。

ただし彼らが挙げたとされる手柄は勝利が確定した後の追撃戦に拠る手柄のみであり、勝敗を決めた一番手柄も大谷吉継石田三成らの先駆衆と呼ばれる武士達に与えられている。

また七本槍(しずがたけのしちほんやり)は後の語呂合わせで、実際に感状を得て数千石の禄を得た点では桜井佐吉、石川兵助一光も同様で、福島正則が「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」と言って居り、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌ったなどの逸話が伝えられて、譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果とも言え、当時から「七本槍」が虚名に近いと言う認識が広まっていた。

ともあれ七本槍(しちほんやり)に名を連ねた武士達は有力武将として後の豊臣政権に於いて大きな勢力をもったが、脇坂氏を除く大半が徳川政権になってからは御家取り潰しなど苦難に遭っている。

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皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2009-08-02 08:31  

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