佐々成政(さっさなりまさ)・波乱編
千五百八十二年(天正十年)、明智光秀が引き起こした本能寺の変の時、佐々成政(さっさなりまさ)は北陸方面の戦いに在り、柴田勝家と共に上杉軍の最後の拠点魚津城を攻略に成功したばかりの成政は変の報が届いて各将がそれぞれ領地に引き揚げた為に上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。
柴田勝家も中国大返しを成し遂げた羽柴秀吉に先を越されて明智光秀を討たれてしまい、丹羽長秀(にわながひで)ら織田家臣団の主力の支持を秀吉に持って行かれてしまう。
羽柴秀吉の明智光秀征伐後、清洲会議に於いて柴田勝家と羽柴秀吉との織田家の実権争いが勃発すると成政は長年の与力関係から柴田方に付くが、その後起こった賤ヶ岳の戦いには上杉景勝への備えのため越中を動けず、叔父の佐々平左衛門に兵六百を与えて援軍を出すに止まった。
柴田勝家が越前・北庄城で敗死し、秀吉方に寝返った前田利家と上杉家の勢力に挟まれた佐々成政は娘を人質に出して剃髪する事で秀吉に降伏し、秀吉から越中一国を安堵されている。
この越中一国安堵は、秀吉にして見れば過ぐる日の金ヶ崎の退き口での殿(しんがり)働きの折の「助勢の借り」を成政に返した積りかも知れない。
やがて羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍との間に小牧・長久手の戦いが始まると、佐々成政は一旦秀吉方につく素振りを見せるが夏頃になって徳川家康・織田信雄方につき、秀吉方に立った前田利家と敵対して末森城の合戦を起しているが、この時期成政は越後の上杉景勝とも敵対していた為に軍勢分割する不利な作戦を強いられて苦戦が続いていた。
そうした中、秀吉敵対していた織田信雄が単独で講和に走り徳川家康もまた和議に転じた為に佐々成政は取り残され進退窮まって、家康に再挙を促す為に厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を越えて家康の本拠地「遠近江・浜松へと踏破する」と言う世に言う「さらさら越え」の壮挙を成し遂げた。
しかし結局、佐々成政の家康への説得は功を奏せず、織田信雄や滝川一益にも説得を行ったが快い返事は得られなかった。
孤立した佐々成政に対して羽柴秀吉自ら越中攻略に乗り出して富山城を十万の大軍で包囲するが、織田信雄が仲介に入って成政を降伏させ、正成は助命されるが越中東部の新川郡を残して全ての領土を没収され、大坂に妻子と共に移住を命じられて御伽衆として秀吉に仕える事に成る。
一旦は小領主に落ちて戦国末期の大舞台から外れた形となった成政だったが、千五百八十七年(天正十五年)の九州の役で功を挙げて肥後一国を与えられ大名に返り咲く。
しかし強引な太閤検地を行おうとするなど領国の運営に失敗、反発する国人が一斉蜂起した事態を自力で鎮める事に失敗して秀吉の怒りを買い、佐々成政は失政の責めを受け、安国寺恵瓊による助命嘆願も効果なく摂津尼崎・法園寺にて切腹させられたのである。
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by mmcjiyodan | 2009-08-08 15:07