同朋衆(どうぼうしゅう)
阿弥は、芸能に優れた同朋衆(どうぼうしゅう)の内、阿弥衆と言われた氏族由来の者が阿弥号(あみごう)を用い、剃髪(ていはつ)をして法体(出家姿)となって雑務や芸能などで将軍奥向きに仕えた所から始まり、やがて大名達に出仕する様になった。
おもな同朋衆の芸としては猿楽能の観阿弥・世阿弥、同じく猿楽能の音阿弥 、茶道の毎阿弥、唐物・茶道・水墨画の芸阿弥、唐物や茶道・水墨画・連歌・立花・作庭などの能阿弥と相阿弥、作庭・連歌を得意とした善阿弥、囲碁の重阿弥などが有名である。
元々の能舞は、「田楽能舞」と言われて住民に密着した素朴な奉納神事だった。
それが室町期に同朋衆(どうぼうしゅう)の手で発展して、能舞は貴族や武士が鑑賞する芸能になった。
大茶人・千利休(せんのりきゅう)、一時は豊臣秀吉の重い信任を受けたが突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられ追って切腹を申し付かった。
利休の祖父が任じていた同朋衆とは、武将の側近として使えた僧形の武士の事で、この当時は僧体のまま武将でもある者も多くいたが、それとは異なり武ではなく芸能・茶事・雑務・話し相手と、言わば世話係(茶坊主)として仕えていた。
いずれにしても、「阿弥」を名乗る同朋衆の出自は、氏族や有姓百姓である。
そして陰陽修験道を源とする武道や演芸は、「氏族のたしなみ」としての武芸百般の内で、演芸は諜報活動の側面を持っていた。
その事から考えられるとすれば、千利休が出自違いの豊臣秀吉と対立する事も、充分考えられない事は無い。
それにしても、室町幕府最盛期の第三代将軍・足利義満の頃に発達した文化芸術・茶道、華道、芸能の家系には、影に諜報員家系の疑いが付き纏(まと)って居る。
当然の事であるが、室町政権に諜報機関が在っても不思議は無い。
それが、文化芸術を隠れ蓑にした同朋衆が、影で負っていた役目であれば、足利義満が力を入れた室町文化、また別の側面が見えて来ないとも限らない。
何しろ、最も平和的に受け取られるのが文化芸術で、何処の屋敷も無警戒に信用される利点があるのだ。
ちなみに豊臣秀吉の母・仲(なか/大政所)の再婚相手・竹阿弥(ちくあみ/秀吉の義父)は織田信長の父・信秀の同朋衆(どうぼうしゅう)であった。
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未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくる」<=このブログのランキング順位確認できます。by mmcjiyodan | 2009-08-13 10:41