桔梗門(別名、内桜田門)と慈目寺(天海=光秀説・その二)
また、大阪岸和田に「本徳寺」がある。
この寺の開基は、年号的には光秀没後三十一年目である筈が、この寺を寄進したのが光秀本人となっていて肖像画も残されているのである。
江戸城(現皇居)の門の中に桔梗門(別名、内桜田門)と呼ばれる門がある。
門の瓦に太田道灌の家紋「桔梗」が付いていたので、「桔梗門と言われた」とする説があるそうだが、天海僧正の明智光秀説が証明されれば、もう一つ説が浮上する。
江戸城三の丸の南門にあたり、大門六門の一つとして厳重に警備され、幕府の要職者が登下城する門だった。
つまり天海僧正は、この桔梗門を利用していた事になる。
門の前には桔梗門橋が架かっていて、門前の掘割は桔梗濠と呼ばれている。
天守閣が明暦の大火(千六百五十七年・振袖火事)で焼失した後、幕府の財政難などの理由で再建されなかった為、この桔梗門の富士見櫓が天守閣の代用とされた。
天海の別名「慈目大師」の名を持つ京北町周山の慈目寺には、光秀の位牌と木造が安置されている。
それらは、おびただしい光秀の亡霊だが、今となっては生き延びた本人なのか、一族の誰かの手に拠るものかは特定できない。
しかしながら、天才・織田信長に挑み続けた、天下の秀才がいた事は事実である。
これらを検証し、光秀の知略に思いをはせる時、我輩には光秀渾身の天下取りが、浮かんで来る。
大逆転である。
天下を取ったのは、人知れず清和源氏の末裔「土岐流れ明智一族」と言う事になるのかも知れ無い。
徳川四代将軍・家綱と五代将軍・綱吉に共通する「綱」の字についても、明智光秀の父「明智光綱の名から取った」と言う説があるが、それとて明智光忠が二代将軍・徳川秀忠と同一人物であれば、至極判り易い話なのである。
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皇統と鵺の影人
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