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二人の天海僧正(天海=光秀説・その三)

天海僧正=明智光秀説の傍証は枚挙に暇が無いが、それは正解であり正解でない。

天海僧正についてはさまざまな妖力の噂が付きまとうが、その最たるものが長寿である。

天海は、家康秀忠家光の徳川家の将軍三代に使え、没年齢は百八歳とも百三十五歳とも言われているが、これは常識的に眉唾である。

いくら長生きでも、安土桃山から江戸時代初期にかけての事で、二代将軍・秀忠と同年代の生まれなら長生きして家光に任えるのも判る。

しかし天海は、江戸に召された段階で相当の年齢(よわい)を重ねていなければ百八歳とも百三十五歳とも言われる長寿の計算が成り立たない。

我輩が思うに、二人分の生涯が「ダブって計算された」と見るのが妥当である。

そこで思い到るのが、明智光秀に付き従っていた年下の従兄弟・明智光春が「天海(光秀)の後を継いで二代目に納まったのではないか」と言う推測である。

この辺りも、残された文献を盾に頑として「光秀(或いは天海)は長生きだった」と主張する方も居られるが、書いてある文章を読めるのと中身を読み解くとには明確な違いが有る。

徳川秀忠が明智光忠であるなら、その後の事の説明は付き易い。

天海僧正が明智光春なら更に説明が付く、何しろ幼少の頃の明智城落城より光秀に付き従い、寝食、生死を伴にして来た「従弟同士」である。

それを、親代わりの天下の秀才明智光秀が、心血を注いだ知略で天下の秀才に育て上げて、歴史が再び二人を江戸で引き合わせたのであれば此れ程強い信頼の絆はない。

この事が事実であれば、天海がいきなり幕府で重用されるに「もっとも自然な理由」と言える。

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by mmcjiyodan | 2009-08-20 14:12  

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