武将と髭(ひげ)と影武者と・・山崎合戦
摂津衆は中川清秀(なかがわきよひで)・高山右近を初めとしてほとんどの諸将が秀吉に味方し、更に四国征伐の為に大坂に集結していた織田信孝・丹羽長秀らも羽柴秀吉の味方になった為、明智光秀と羽柴秀吉の山崎決戦に於いて、事前の形勢は光秀には壊滅的に不利だった。
この時点で、織田信長が策した徳川秀忠の存在は、光秀にとって唯一秀吉への「隠し弾」となっていた。
光秀の結論はすぐに出た。
「家康殿と組んで、かならずや秀忠(明智光忠)に天下を取らせようぞ。」
この時点で光秀には、目先の合戦の勝敗など既に眼中にない。
家康には親書を送り、傍観を決め込むように念を押した。
こうした背景を踏まえて、光秀対秀吉の「山崎の合戦」は、「秀吉一人が鼻息荒く」始まったのである。
実は、羽柴秀吉は長年の間明智光秀に嫉妬していた。
自分が越えられない血統と才能、そして、人脈の大きな壁であった。
光秀がいる間、秀吉が戦でどんなに成果を上げても織田家家中でいつも二番手に甘んじていた。
その邪魔者を、目の前から取り除くチャンスである。
明智光秀軍一万六千、羽柴秀吉軍三万八千、およそ倍以上の兵力の上に秀吉は織田信長直伝の戦上手である。
最初から苦戦の光秀は、合戦の最中、正に信長の亡霊と戦っている様な感覚に襲われていた。
「光秀、わしを乗り越えて見よ。」
信長の高笑いが、聞こえた様な気がする。
明智光秀がそんなだから、山崎の合戦の勝敗は戦う前に目に見えていた。
予期した山崎の合戦の敗戦である。
土民の竹槍に影武者が討たれている間に、光秀は甥の明智光春を伴ってヒッソリと歴史の表舞台から消えた。
この時身代わりの影武者を買って出たのがお福の父親で、光秀の従弟とも腹違いの兄弟とも言われる家老の斉藤利三だった。
彼は、自らそれを買って出た。
元々近い身内で良く似ていたから光秀の身代わりは容易で、死ぬのは覚悟の上だったから、見事な最後だった。
後になってお福はその事を知ったが、「父上らしい御最後だ。」と、武士の娘らしく自らを納得させた。
影武者を容易にしたのは口髭(くちひげ)である。
口髭(くちひげ)は、長い事氏族(武士)の象徴だった。
この章に登場する男性の人物達が一様に口髭(くちひげ)を生やしていたのは、自分を強くたくましみせ、相手を威嚇(いかく)して武士・武将(氏族)の威厳(いげん)を保つのが目的だった。
つまり、征服部族の目的精神に合うのが、髭(ひげ)である。
従って戦国末期まで、武士は手入れの行き届いた髭(ひげ)を生やすのが常識で、髭(ひげ)の無い武士など存在しない時代で在った。
口髭(くちひげ)の相手に与える視覚的印象は強烈で、この髭(ひげ)の形状が人相の一部として武家社会と言う世間に受け入れられていた事が、実は情報戦の細工に利用される事になる。
家長制度の時代では、弟であっても家臣である。
従兄弟などは尚更で、家の為に家長に尽くす。
普段身分の高い者とその顔に良く似た「顔立ち年恰好の身内」が居る場合、口髭(くちひげ)の形状をわざと違えて周囲が見分けられるように配慮がなされていた。
これを裏返せば、影武者の創造は、「髪型と口髭(くちひげ)の形状を本物に似合わせれば出来上がり」と容易だったのである。
この時代、影武者は常道である。
明智光秀の影は斉藤利三が勤め、利三の影にはまた身内の従弟が勤める。
従って山崎の合戦後の斉藤利三の消息には、数通りの微妙な伝承が残されているのである。
関連小論
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