信長三男・織田信孝(おだのぶたか/神戸信孝)
信孝は、信長が伊勢国を平定した千五百六十八年(永禄十一年)に降伏した神戸城(三重県鈴鹿市)城主・神戸具盛(かんべとももり)の養子となり、養父・具盛(とももり)が信長によって隠居させられた後の千五百七十二年(元亀三年年)、十五歳で神戸氏を継ぎ、神戸信孝(かんべのぶたか)とも称する。
伊勢国には伊勢神宮が在り、天下布武を掲げる信長としては抑えるに重要な土地だった為に、三男・信孝を伊勢の抑えに配する事は計画的だったと考えられる。
織田家臣団からは傳役として幸田彦右衛門が付けられ、岡本太郎右衛門、坂仙斎などの他かなりの侍が信孝付きと成り、また地着きの土豪・関氏一族他も与力として従っている。
神戸氏を継承から二年後、千五百七十四年(天正二年)から千五百七十四年(天正三年)に掛けて伊勢長島一向一揆や越前一向一揆が起こり、神戸信孝(かんべのぶたか)はその一揆の平定戦に参加している。
神戸信孝の率いる伊勢勢は、一向一揆平定後の紀州征伐や荒木村重討伐戦(有岡城の戦い)にも出陣している。
父・信長の天下布武構想に現実味が出て来た千五百八十二年(天正十年)、信孝は四国征伐(長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)討伐)の総司令官に任ぜられ織田氏の宿老・丹羽長秀・従兄弟の津田信澄らと共に堺にて四国渡海の準備中、明智光秀に拠る本能寺の変が勃発する。
神戸信孝(かんべのぶたか)は摂津国富田で「中国大返し」後の羽柴秀吉軍に合流、名目上の総大将として山崎の戦いに参戦し、仇である明智光秀を撃破した。
しかし戦勝後の清洲会議に於いて、信孝は父・信長の弔い合戦の総大将を勤めたにも関わらず羽柴秀吉に押し切られ織田氏の後継者は甥の三法師(兄・信忠の長男)に決まり、信孝は三法師の後見役として兄・信忠の遺領地であった美濃国を与えられ、岐阜城主となる。
その後信孝は、秀吉と対立する柴田勝家に接近し、勝家と叔母のお市の方との婚儀を仲介し、織田氏宿老格の柴田勝家・滝川一益らと結び、三法師を擁し秀吉に対して挙兵するが、この挙兵は秀吉の迅速な行動によって降伏せざるを得なくなり、人質を出して三法師を秀吉に引き渡した。
羽柴秀吉と柴田勝家の間に賤ヶ岳の戦いが起きると、信孝は柴田方に組して再度挙兵したのだが、兄・織田信雄(信長・二男)に拠って居城の岐阜城を包囲され、頼みの勝家も北ノ庄城で自害した為、岐阜城を開城して秀吉に降伏した。
この賤ヶ岳の戦いの戦後処理で、信孝は尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺に送られ、自害している。
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