宇喜多秀家(うきたひでいえ)
織田信長の計らいにより本領を安堵され八郎(秀家)が家督を継いだ時、織田軍団の羽柴秀吉(豊臣秀吉)は信長の命令に拠って中国遠征の最中だった為に宇喜多軍は秀吉の遠征軍に組み込まれ、叔父の宇喜多忠家が代理で軍を率いて秀吉に拠る備中高松城攻めに協力している。
そこに宇喜多家としては幸運とも言える本能寺の変が起こって、信長が明智光秀に攻められて自害する。
この「本能寺の変」の為に、秀吉は中国大返しをして明智光秀を討つ事が急務となって毛利輝元と和睦する事となり、結果、宇喜多八郎(秀家)は毛利家の監視役を務める為に備中東部から美作・備前の領有を秀吉から許される棚ボタの幸運で、まだ元服前の幼名しかない幼少の内に備前岡山五十七万万四千石の大々名に伸し上がった。
それでも山崎合戦に直面した秀吉に取って毛利家の抑えを勤めた宇喜多家の功績は大きく、後に元服した際に豊臣秀吉より「秀」の字を与えられて宇喜多秀家と名乗った。
また、子に恵まれずに居た秀家は秀吉の寵愛を受けてその猶子となり、秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫(前田豪/おごう)を正室に娶って外様ながら豊臣家一門扱いを受ける事に成る。
四国征伐、九州征伐、小田原征伐に参軍した宇喜多秀家は、朝鮮に派兵した文禄の役、慶長の役では大将・監軍を勤め、帰国して秀吉から五大老の一人に任じられた。
その年に秀吉が死去し、後を追うように豊臣秀頼の後見役だった前田利家が千五百九十九年(慶長四年)に死去すると、豊臣家内で武断派の加藤清正・福島正則らと、文治派の石田三成・小西行長らとの派閥抗争が表面化し、これに乗じた五大老筆頭の徳川家康が豊臣家における影響力を強める事となる。
千六百年(慶長五年)家康が上杉景勝討伐の為に出兵している機を見計らい、石田三成は毛利輝元を盟主に担ぎ打倒家康の挙兵をする。
豊臣家一門扱いを受けていた宇喜多秀家は、西軍の副大将として石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発して西軍の主力となる。
伏見城攻撃で秀家は一万七千の兵を擁して総大将として参加し、関ヶ原の戦いに於いても西軍主力として積極的に戦い、東軍の福島正則隊と激戦を繰り広げた。
しかし同じ豊臣家一門である小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した。
関ヶ原の後、敗れた宇喜多秀家は伊吹山中に逃れた後、変装して薩摩の島津家・島津義弘を頼って落ち延び、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)に匿われたが、宇喜多家は家康に拠って改易された。
島津氏を頼った秀家だったが、「島津氏が秀家を庇護している」と言う噂が広まって困った島津義弘の子・忠恒に拠って逃亡三年後に家康の下へ身柄を引き渡されるも、島津忠恒や縁戚の前田利長の助命懇願により死一等を減じられて死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉され、その三年後に伊豆諸島・八丈島へ配流と成り現地で五十年生きて八十三歳で没したと伝えられている。
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