良光(ながみつ)親王
南北朝の戦が義良親王(のりながしんのう /後村上天皇・ごむらかみてんのう )を頂いた東北地方と懐良(かねなが)親王を頂いた九州にその主戦場が移って居て居た。
後醍醐天皇の十一番目の皇子・懐良(かねなが)親王は、父帝・後醍醐の命により、僅(わずか)七~八歳と幼いながらも征西大将軍に任命され、千三百三十六年(建武三年/延元元年)頃に「吉野を出立、九州を目指した」と言われて居るが、目的は九州の地に南朝の地盤を築く事だった。
千三百六十一年(正平十六年)には一時九州を制圧、懐良(かねなが)親王は大宰府 に入って征西府 (征西大将軍の政務機関)が誕生、その後十一年間に渡って九州南朝勢力の全盛時代を築いたが、その後九州は北朝方に平定され、懐良は征西将軍の職を甥にあたる良成(ながなり)親王(後村上天皇の皇子)に譲り「筑後矢部で病没した」と伝えられる。
懐良(かねなが)親王は、幼くして九州制圧に任じたが、九州に十九年間在って、その内十一年間も九州を制圧、安定した出先行政府まで置いている。
二十歳代半ばに達したその皇子が、我が子を為さないとは考え難い。
北朝・幕府管領の細川頼之が九州探題として派遣した今川貞世(了俊)により北朝九州政権が大宰府を追われる頃、形勢不利となった九州の戦況挽回の為に大内氏を頼った良光(ながみつ)親王は南朝・後醍醐帝の皇子・南朝の征西大将軍・懐良親王(かねながしんのう)の継子に当たり、懐良(かねなが)親王の忘れ形見である。
懐良(かねなが)親王の皇子・良光(ながみつ)親王は、吉野朝・後村上天皇に預けられ、その後北朝方室町幕府管領の細川頼之が九州探題として派遣した今川貞世(了俊)に圧されて劣勢となった九州南朝方・征西軍の援護を要請する為に中国地方の有力者・大内家に下向している。
大内家では、良光(ながみつ)親王こそ受け入れたが、「時期を見る」と動かず、親王を匿(かくま)ったままに北朝方の九州平定を迎えていた。
懐良親王(かねながしんのう)の継子に当たる良光親王(ながみつしんのう)は、正確には親王の子であるから本来なら良光王(ながみつおう)と呼ぶのが正解である。
しかし懐良親王(かねながしんのう)が、九州南朝として吉野宮本家よりも広域な実効支配を確立していた事からか、或いは隠し玉として依り価値を求めたのか大内家では良光王(ながみつおう)を親王(しんのう)としていた様である。
或いは親王と呼んだのは、懐良親王(かねながしんのう)の九州統治を九州王朝と認めて居たのかも知れない。
尚、良光王(ながみつおう)を親王と記載するには、懐良親王(かねながしんのう)が幼くして九州制圧に任じ、九州に十九年間在って、その内十一年間も九州を制圧、安定した出先行政府まで置いて居た為、独立した九州王朝だったと見る状況が在ったからである。
懐良親王(かねながしんのう)が九州に渡り時を経ると、中央では既に南朝勢力は衰微していたものの、九州に於ける懐良親王(かねながしんのう)は幾多の戦いを勝ち抜いてさながら九州王国並みの強固な地盤を築いている。
そうした懐良親王(かねながしんのう)の勢力を認めて、明の太祖(洪武帝)がこの頃北九州で活動していた倭寇と呼ばれる海上勢力の鎮圧を要求する国書を懐良(かねなが)に宛て送り来る。
懐良親王(かねながしんのう)は、始めは断るものの、後に「日本国王・良懐」として冊封を受け、明の権威と勢力を背景に独自に九州に南朝勢力を築く。
この名を前後させ「日本国王・良懐」として明の太祖(洪武帝)依りの冊封を受けた事を根拠に、その第一皇子を同様に光良(みつなが)から良光(ながみつ)として親王を名乗った可能性を感じる。
また、南北朝時代の周防国守護大名・大内弘世(おおうちひろよ)は、南朝方の武将として後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子・満良親王(みつながしんのう)を奉じて長門国などへ勢力を拡大、周防国と長門国を領する。
良く後醍醐帝の第十一皇子・満良親王(みつながしんのう)と良光王(ながみつおう)を混同した記載も散見され、後の懐良流(かねながりゅう)後胤が満良親王(みつながしんのう)の後胤とされるが、大内家の隠し玉は、懐良流(かねながりゅう)後胤・良光王(ながみつおう)の方である。
千四百年、南朝征西将軍・九州王・懐良親王(かねながしんのう)の皇子・良光親王(ながみつしんのう)が、室町時代前期の武将・大内氏第九代当主・大内弘世(おおうちひろよ)の七男で第十代当主・大内義弘の弟・大内弘茂(おおうちひろしげ)に連れられて田布施・麻郷に来た。
千四百年当時の大内家は、前年の応永の乱で三代将軍・足利義満率いる幕府軍と交戦し当主・大内義弘を失い、足利義満方に降りた大内弘茂(おおうちひろしげ)と大内盛見(おおうちもりみ/後に第十一代当主)が内紛戦闘状態で、親王を田布施・麻郷に非難させたようだ。
この良光(ながみつ)親王の末裔が、明治維新の折りに密かに後醍醐帝と懐良親王(かねながしんのう)の怨念を晴らすかの様によみがえったのでなければ、巷にまことしやかに流れる明治帝(睦仁親王)南朝入れ替わり説の疑惑は説明が着か無いのである。
【七卿落ち(八月十八日の政変)】へ続く。
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参考リスト【正中(しょうちゅう)の変から室町幕府成立までの主な登場人物と主な出来事】<=クリックがお薦めです。
詳しくは、関連小論・【真言密教立川流の解説】に参照下さい。
詳しくは、関連小説・【異聞・隠された明治維新】を参照下さい。
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