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池田恒興(いけだつねおき)

池田恒興(いけだつねおき)の生年は千五百三十六年(天文五年)で、織田信長より二歳若く羽柴秀吉より一歳年長である。

池田氏の出身地に関しては尾張国、美濃国、摂津国、近江国など諸説が在り定説は無いが、一説には美濃国土岐郡発祥の清和源氏頼光流が有力とされる。

恒興の母・養徳院が信長の乳母となった事から、幼少の頃から小姓として仕え、信長の乳兄弟・遊び友達として虚(うつ)け無頼な遊びに付き合っていた。

池田恒興の人生は、「織田信長とともに在った」と言っても過言ではない。

従って多くの織田家家臣が信長の弟・信行(信勝)の跡目擁立に動く中、終始一貫して信長に従い信行(信勝)の排除に功を挙げている。

信長が織田家を継承すると、恒興は前田利家の小姓衆や佐々成政ら馬廻衆よりは大身の身分の本陣要員として信長に近侍し桶狭間の戦い美濃攻略の戦い浅井氏朝倉氏連合との姉川の戦いでなどで活躍し、犬山城主となり禄一万貫を与えられ、その後も甲斐の武田氏との長篠の戦いなど信長の主だった戦に参陣した。

信長の信任は厚い恒興だったが、当時の織田家には派手な戦上手がひしめいていて出世の機会に恵まれなかった恒興に、千五百八十年(天正八年)荒木村重の謀反と言う出世の機会が訪れる。

相手は音に聞こえた猛将・荒木村重だったが、池田恒興は花隈城に籠もる荒木村重を破りその旧領の内摂津有岡十二万石を領して大名の列に加わっている。

恒興が摂津有岡十二万石を領して二年後、百五十八二年(天正十年)本能寺の変で信長が家臣の明智光秀に急襲され自害すると、中国攻めから大返しで引き返した羽柴秀吉に兵四千を率いて合流、決戦と成った山崎の戦いでは右翼先鋒を務めて光秀を破り、功を認められて織田家の宿老に列する。

同年、織田家の後継を巡る清洲会議では、柴田勝家らに対抗して、秀吉とともに信長嫡孫の三法師(織田秀信)を擁立し、領地の再分配では摂津国三十八万石の内、大坂・尼崎・兵庫に於いて十二万石を安堵され引き続き領有を認められた。

翌年の賤ヶ岳の戦いには恒興は参戦していないが、秀吉から美濃国にて十三万石を拝領し大垣城主となる。

本能寺の変から二年、三河の徳川家康織田信雄との小牧・長久手の戦いでは、去就が注目されたが結局は秀吉方として参戦し、緒戦で犬山城を攻略したのち、三好信吉(豊臣秀次)森長可(もりながよし/恒興の娘婿)堀秀政とともに家康の本拠三河を攻めようとしたが、合戦の前半で鞍に銃弾を受け落馬した事が災いとなり長久手にて森長可とともに戦死している。

この時、嫡男の元助も討ち死にした為、池田家の家督は次男の輝政が相続した。

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by mmcjiyodan | 2009-10-10 04:39  

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