毛利元就(もうりもとなり)
毛利元就(もうりもとなり)が家督を継いだ時、毛利家は安芸国の一介の国人領主に過ぎなかったが、一応安芸国人領主の盟主的な役割を担っていた。
そして周囲には、周防国を本拠とする守護大名から戦国大名に成長した周防・大内氏や出雲国の支配権を奪取し山陰地方に勢力を伸ばした出雲・尼子氏(あまごし)が備前国まで手を伸ばし始めた圧力が在った。
この分では安芸国は大内氏や尼子氏(あまごし)に蹂躙されると恐れた毛利元就は、安芸国人領主の結束を訴え腐心するが当時の毛利氏は安芸国の国人領主の盟主的な地位に在ったものの、彼らを力づくで支配するだけの政治・軍事力は備わって居なかった。
そこで元就は謀略に拠って有力国人領主を取り込み、軍事組織と政治組織を確立して行く。
その組織が毛利両川(もうりりょうせん)体制で、元就嫡男・毛利隆元を残し毛利氏と同格の国人領主だった吉川・小早川両氏に二男・元春と三男・隆景を養子として送り込んで夫々の勢力を吸収するのに成功する。
毛利・吉川・小早川が血縁同盟をした事で力を着けた毛利元就は厳島の戦いで大内氏・大内義隆(おおうちよしたか)の所領を下克上で横領した陶氏・陶晴賢(すえはるたか)を倒し大内氏の所領の大部分を領して戦国大名に脱皮、更に大内氏を滅ぼして周防・安芸の完全支配を確立し、中国地方制覇に乗り出して行く。
千五百五十七年(弘治三年)、毛利元就の嫡男・毛利隆元は弟達である吉川元春・小早川隆景が毛利氏の運営に参画して自分を補佐する事を条件とし家督継承を承諾する。
その際元就は、三人の実子隆元・元春・隆景に対して有名な「元就教訓状」を出し、毛利の家名を存続させる事を第一として、他名(吉川・小早川)は当座のものである事、兄弟が協力して毛利家中を守り立てる事を説いた。
これが毛利宗家を中心として吉川・小早川両氏がこれを支える「毛利両川」体制である。
三兄弟体制で臨んだ毛利氏は、尼子氏を制圧して尼子氏の所領を併せ、山陽・山陰地方の大半(中国地方十ヵ国と北九州の一部)を制圧し、隆元の早世や元就の病没にも結束は緩まず、隆元の遺児である毛利輝元を毛利氏当主として押し立てる事に依って、戦国最大級の大名・中国地方の覇者・毛利氏の基礎を築いたのである。
【毛利両川(もうりりょうせん)体制】に続く。
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未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくる」<=このブログのランキング順位確認できます。by mmcjiyodan | 2009-10-21 01:07