毛利輝元(もうりてるもと)・「前編」
安芸(現在の広島県)に生まれ、幼名は幸鶴丸を称した毛利輝元(もうりてるもと)は父・隆元が急死した為十一歳で家督を継ぐも若年の為、祖父・元就が実権を掌握し、政治・軍事を執行していた。
毛利幸鶴丸は、千五百六十五年に十三代将軍・足利義輝より「輝」の一字を許され十二歳で元服し、輝元と名乗り同年の月山富田城で初陣を飾る。
千五百七十一年(元亀二年)、輝元十八歳の折に周防・長門・長州・安芸・石見をほぼ制した一代の英雄・祖父の元就が死去すると、毛利両川(もうりりょうせん)体制を中心とした重臣の補佐を受け、元就は漸く親政を開始する。
その親政開始の三年後、千五百七十四年(天正二年)には織田信長の助力で将軍職に就いた十五代将軍・足利義昭からの推挙を得て、輝元は朝廷から右馬頭に叙任され室町幕府の相伴衆に成った。
「三本の矢」の逸話の元とも成った毛利両川(もうりりょうせん)体制とは、吉川氏には次男の元春、小早川氏には三男の隆景を養子として送り込み、それぞれの正統な血統を絶やしてその勢力を吸収するのに成功し、中国制覇を果たすのに大きな役割をした組織体制である。
月山富田城・初陣の後、輝元は中国地方の覇者となるべく各地に勢力を拡大して行く。
祖父・元就の時代からの敵対勢力である尼子勝久や大友宗麟らとも戦い、これらに勝利して九州や中国地方に勢力を順調に拡大し続けていた。
所が、千五百七十六年(天正四年)になって織田信長に拠って都を追われた将軍・足利義昭が領内の備中に動座して来た為、輝元は保護せざるを得ない状況となる。
その上石山本願寺が挙兵(野田城・福島城の戦い)すると輝元が村上水軍を使うなどして本願寺に味方し、兵糧・弾薬の援助を行うなどした事から信長と激しく対立する。
信長軍団と事を構える事に成った毛利輝元だったが、当時織田軍は越後の上杉謙信と敵対していた事もあり兵が手薄で、緒戦の毛利軍は連戦連勝し、第一次木津川口の戦いで織田水軍を破り大勝利を収めた。
その勢いで羽柴秀吉・尼子氏連合軍との決戦に及んだ上月城の戦いで、羽柴秀吉は三木城の別所長治の反乱により退路を塞がれる事を恐れて上月城に尼子勢を残して転進した為、輝元は上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍を滅ぼし、信長を歯軋りさせるほど織田氏に対して優位に立った。
しかし上杉謙信が死去、更に第二次木津川口の戦いで鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に敗北を喫し、毛利水軍が壊滅するなど、次第に戦況は毛利側の不利となって行き、千五百七十九年(天正七年)に成ると毛利氏の傘下にあった備前の宇喜多直家が織田信長に通じて毛利氏から離反した。
【毛利輝元(もうりてるもと)・「後編」】に続く。
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