毛利輝元(もうりてるもと)・「後編」
織田軍中国攻略の指揮官である羽柴秀吉に拠って、毛利輝元は徐々に追い込まれて居た。
輝元も叔父達と共に出陣するが、信長と通じた豊後の大友宗麟が西から、山陰からも信長と通じた南条元続らが侵攻して来るなど身動きが採れず、羽柴秀吉は播磨三木城を長期に渡って包囲し、持ち堪え切れなくなった別所長治は自害させ、因幡鳥取城も兵糧攻めにより開城させ毛利氏の名将・吉川経家が自害する。
千五百八十二年、羽柴秀吉が毛利氏の忠臣・清水宗治が籠もる備中高松城を水攻めにしていた頃、秀吉は京都・本能寺にて本能寺の変が発生し、明智光秀の謀反により主君・織田信長滅ぶの報を聞き慌てて毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に働きかけ毛利氏との和睦を持ちかける。
戦況の不利で和睦を願って居た輝元や小早川隆景らは信長の死を知らずにこの和睦を受諾、結果備中高松城は開城し、城主・清水宗治は切腹して秀吉の中国大返しを許す事になった。
中国大返しで機内に戻った羽柴秀吉と明智光秀の山崎の合戦を経て、中央で羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を巡り火花を散らし始めると、毛利輝元は勝家・秀吉の双方から味方になるよう誘いを受けたがいずれが勝利するか確信が持てずに中立を保った。
賤ヶ岳の戦いには協力しなかった輝元は、合戦後に羽柴秀吉を天下人と見定めて接近し、秀吉に臣従し毛利元総(のち秀包)や従兄弟の吉川経言を差し出し忠誠を誓っている。
その後の輝元は、秀吉家臣として四国征伐、九州征伐にも先鋒として参加して武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与して結果、秀吉より周防・長門・安芸・石見・出雲・備後など百二十万五千石の所領を安堵され、豊臣姓と羽柴の名字を許され羽柴安芸中納言輝元と称された。
文禄・慶長の役と呼ばれる二度の秀吉に拠る朝鮮出兵にも輝元は主力軍として兵三万を派遣し、これらの功績から秀吉より五大老に任じられた。
千五百九十八年(慶長三年)の豊臣秀吉死去の際、臨終間近の秀吉に輝元は五大老の一人として遺児の豊臣秀頼の補佐を託されている。
豊臣秀吉死去から二年、千六百年(慶長五年)に徳川家康と石田三成による対立が遂いに武力闘争に発展、徳川家康が上杉景勝討伐に出陣する隙を突く形で石田三成が西軍の総大将として毛利輝元を擁立し挙兵する。
四十七歳に成っていた輝元は、三成らに擁されて大坂城西の丸に入り西軍の総大将として大坂城に在ったが、関ヶ原本戦においては自らは出陣せず、一族の毛利秀元と吉川広家を出陣させるに止まった。
その西軍が関ヶ原で壊滅した後、輝元は徳川家康に申し出て自ら大坂城から退去し決戦を避けている。
一方、毛利両川(もうりりょうせん)の一家・吉川広家は、西軍が負けると判断して黒田長政を通じて本領安堵、家名存続の交渉を家康と行い、関ヶ原本戦では吉川軍が毛利軍を抑える形となって毛利秀元の率いる毛利軍は不戦を結果とした。
それで毛利家は安泰と思われたが、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり大坂城で輝元が西軍に関与した書状を多数押収した事から、徳川家康は戦後その本領安堵の約束を反故にして毛利輝元を改易する。
その上で家康は、改めて吉川広家に周防・長門の二ヶ国を与えて毛利氏の家督を継がせようとしたのだが、広家は家康に直談判して毛利氏の存続を訴えた為に毛利輝元は隠居、毛利秀就への周防・長門二ヶ国の安堵となり毛利本家の改易は避けられた。
この家康の仕置きが、まさか二百五十年後に徳川家への「禍根となる」などとは、流石の徳川家康も知る由もない。
毛利氏は所領を周防・長門二ヶ国の三十七石に大減封されて江戸期を凌(しの)ぎ、遠い歳月を経て明治維新の倒幕急先鋒の藩と成ったのである。
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