家康・神君伊賀越えの怪
徳川家の歴史書には、便宜上「神君伊賀越え」と称されているが、それらには源氏の末裔を名乗った徳川家の表向きに対する「嘘」が存在した。
それは家康の生家・松平家が、実は賀茂臣(かもあそみ)であり、松平家には家臣に雑賀鈴木家の分家筋が存在し、領内に伊賀神社も奉っていて、紀州雑賀家(鈴木家)や伊賀服部家とは古い縁が在った事である。
また、密約で影に廻った明智光秀の存在をその後の歴史から抹殺する必要があったからでは無いだろうか?
家康は、織田信長の招きで僅かな供回りを連れ、五月に安土城を訪れた後、堺(雑賀衆の本拠地)に滞在した。
旧暦六月二日朝、本能寺の変の報を聞き、蝉時雨(せみしぐれ)の伊賀越え街道をひた走って、山城・近江・伊賀の山中を通って伊勢へ抜け、伊勢湾を渡って本国三河に戻り、これを後に「神君伊賀越え」と称される。
これが、後年「神君のご艱難」と称される家康最大の危機と呼ばれたものだが、光秀方の息が掛かった伊賀超えの山中を選択し、小人数の供回りで突破した事は、その選択自体が怪しい。
このエリア、明智方の郷士が乱立する地域だったので、危険であれば堺より海路を取るのが常識的で安全である。
チョットした謎だが、その後の羽柴秀吉との「小牧の戦い」に於いて、光秀と縁が深かった根来衆・雑賀衆がこぞって家康に加担した事から、「光秀と家康の密約の結果だった」と言う疑いを感ずる話で有る。
堺に逗留していた家康の前に、光秀の親書を携えて来たのは伊賀の棟梁、服部半蔵であった。
書状を受け取った家康は、瞬時に事態を把握する。
織田信長の死は局面が大変(おおか)わりをする事態で、家康も本拠地に戻ってあらゆる事態に備えねばならない筈だが、ここで一つの謎が生じる。
知らせを聞いたのは港町・堺で、そして泉州・紀州・伊賀・甲賀辺りは最も明智光秀の息が掛かった土豪の多い土地であるから本来なら最も安全な領国三河・遠近江への帰途は船旅の筈である。
所が家康は、危険な伊賀越えを躊躇無く選択している。
「これは大事、急ぎ三河に戻るぞ。」と家康が発すれば、本多忠勝が色めいたって「殿、何(いず)れの道を戻りまするか?」と申すに、それを井伊直政が制して「殿、堺より船を仕立てては如何がか?」と進言する。
「直政、案ずるな。明智殿が手配の伊賀超えじゃ。手抜かり無く、半蔵とやらも遣わして寄越したわ。」
身代わりの影武者まで立てて隠遁を選んだ光秀にとって、家康の生死は重大な意味を持つ。
本能寺急襲の決意を固めた時から直ぐに手を打ち、服部半蔵に文と退路の案内を託していた。
家康の安全は最初から確保されていた確信で、この時、家康の「苦難の伊賀越え」に助力したのが、光秀の命を受けた伊賀衆である。
この神君伊賀超えには、後に「徳川四天王」の一人と呼ばれる側近の井伊直政(いいなおまさ)や本多忠勝、帰参が成った本多正信などが同行している。
伊賀山中突破の「神君のご艱難」は、家康伝説を脚色した大げさな手柄自慢では無いだろうか?
いずれにしても、この辺りの如何にも出来レース臭い伊賀越えの辻褄合わせが、徳川家康の本能寺の変黒幕説の立ち上る煙かも知れない。
この折道案内をした伊賀の棟梁・服部半蔵正成は、その伊賀山中突破の功で江戸城に「半蔵門」が作られ、公儀お庭番として登用されている。
【第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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