旗指物(はたさしもの)と戦(いくさ)
平安時代に始まり室町時代までの軍事用の旗は、長い布の一端を棒にくくりつけて風に流した物 (長旗)が多かったが、戦国期に成ると武威を誇張する為に様々な個性豊かな印が戦場で用いられている。
この旗指物、戦場での「敵味方を判断する為」とする解説が多いが、実はそれだけの解説では不充分である。
何故なら織田信長が歴史の表舞台に登場するまでは、戦が個人戦の集積型だったからである。
戦国期に様々で個性豊かな印が登場した理由は、主に「手柄の確定」だった。
つまり近頃やたらと持ち上げられている武士道の精神とやらの「名乗ってから切り合う」は正々堂々と勝負した綺麗事では無く、本音は恩賞を得る為の「手柄の確定」の確定目的であるから一種の既得権化した武士の合意であった。
本来、戦場で自分の手柄を公に認めさせる為に始めた「名乗ってから切り合う」は当時の武士の暗黙の了解で、それが「恩賞の決め手」と言う常識なのだ。
それを織田信長の発想で団体戦にされると、手柄を雑兵に持って行かれる。
つまり織田信長の提案した団体戦は上級武士の利権がらみなのであるから、それで事の是非ではなく旧勢力は頭から抵抗する。
武士が既得権を守る為にまどろっこしい戦をしていた訳であるから、天才・信長がその武士どもが既得権化した合意を無視して団体戦法を多用するまでは個人の手柄を遠くから視認させる為の物だから、氏名(うじな)をそのまま書いた物から家紋を用いたものなど、一族郎党単位の武士ごとに他者と細かく区別されるべき小旗を鎧(よろい)の背中にさして戦場で目印とした物だった。
その悪癖を打ち破る為に信長は、戦ごとに郷士を集め編成する兵団の在り方を改め、戦国期初の常設軍を編成する。
言わば意識改革と戦法(戦闘システム)を改良した事で、信長軍は他の戦国大名の古い「手柄の確定」を引きずった寄せ集めの軍勢拠り強かったのだ。
旗印が武将ごとに団体統一されて武将ごとに旗持ちを置くなどと成って行くのは、羽柴秀吉の千成瓢箪のごとく軍団の単位が大きくなって行った織田軍団などの安土桃山期の各武将くらいからで、それも関が原の合戦を堺に旗指物その物が衰退して行った。
従って古い時期の戦国期に、一軍団が統一された旗指物を使っている再現映像は、見かけは良いかも知れないが時代考証を無視した間違いである。
特記記事
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