周布兼翼・政之助(すふかねすけ・まさのすけ)
長州藩士(大組二百十九石)・周布吉左衛門の五男として生まれた周布政之助(すふまさのすけ)は、僅か生後六ヶ月の時に父と長兄が相次いで歿した事に拠る末期養子として家禄を六十八石に減ぜられて家督を相続した。
周布政之助が長州藩で頭角を現したのは遅く、千八百四十七年(弘化四年)の二十四歳の時に祐筆・椋梨藤太(むくなしとうた)の添役として抜擢され藩政に参画を始めた。
藩政の実権を掌握して長州藩・天保の改革に取り組んでいた家老・村田清風の後ろ盾を得て頭角を現した周布は、村田清風の病没後に改革派の村田清風の路線を継ぎ政務役筆頭として藩財政の再建、軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力し、また桂小五郎・高杉晋作ら、吉田松陰の教えを受けた若い人材の登用に熱心で在った。
所が周布政之助は、天保の藩政改革を行った家老・村田清風の影響を受けた人脈として村田の政敵で在った保守佐幕派(俗論派)の坪井九右衛門派の藤太椋梨らと対立する事になり、藩内の派閥争いに敗れて、周布は一時失脚した。
しかし実直な性格の周布は、多くの人望を集め再度藩政に復帰し、尊皇攘夷を掲げて藩政の陣頭に立つ。
周布政之助は本来、攘夷の愚を知る開国論者だった。
千八百六十二年(文久二年)頃に長州藩論の主流となった長井雅楽の航海遠略策にも一時同調したが、久坂玄瑞ら松下村塾系の攘夷派若手藩士らに説得され、藩論統一の為にあえて攘夷を唱える事で守旧派に対抗して藩政改革の起爆剤とする策にでる。
周布政之助(すふまさのすけ)は、高杉晋作ら長州藩の若い藩士達の良き理解者として、藩政改革を目的に尊皇攘夷を推進し倒幕のきっかけを創った。
「酒癖が悪かった」とも「愚直なほど一途な性格だった」とも言われる周布は、多くの舌禍事件を起こし、度々に逼塞処分(ひっそく/閉門より軽いおとなしくしている処分)を受けたが、その有能さから復活を果たし、その都度長州藩々政へ復帰している。
千八百六十四年の禁門の変や第一次長州征討に際して周布政之助は、事態の収拾に奔走したが、藩政の実権を次第に椋梨藤太ら保守佐幕派(俗論派)へ奪われる事となり、その責任を感じた周布は山口矢原(現・山口市幸町)の地で切腹を遂げた。
いずれにしても、明治維新に到る歴史的過程で周布政之助が果たした役割と影響は少なくはない。
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