奥州・藤原家(清原家)・(四)藤原家と源義経
その後藤原家は、基衛(もとひら)、秀衛(ひでひら)と続き、秀衛は「鎮守府将軍」に任官する。
平治の乱に敗れた源義朝と常盤御前の間に生まれた義朝の九男・牛若丸(遮那王/源義経)は、若くして鞍馬山に隠棲する。
その義経は五年後に鞍馬山を降り、監視の目を逃れて京を脱出、東北の大豪族・奥州藤原氏の頭領・藤原秀衛(ふじわらひでひら)を頼る。
奥州藤原家最盛期の頃、鞍馬山を抜け出した源義経が、平家の目を忍んで秀衛を頼って来たのだ。
そして、息子同然に扱われて、頼朝旗揚げの日まで過ごした。
義経十六歳の時であった。
十六歳に成っていた源義経は一見女子と見紛う優男ではあったが、度胸もあり剣の腕も立つ魅力的な若者に育っていた。
ちょうど平清盛が太政大臣に成って平氏全盛の時代であるが、幸い奥羽六ヵ国の雄・奥州藤原家(昔の清原家)は別格で、平氏としても影響が及び難かった。
藤原秀衡の庇護を得た事について、伝承によれば「金売吉次と言う金商人の手配によった」と言うが、この人物の実在性は今日疑われていて、実際には「名も無い影の働きに拠る、または、金売吉次と名乗った影がいた」と見るべきで、少年義経(遮那王)は、何者かの将来の備えの思惑で、軍事顧問まで付けて育成されていたのかも知れないが、勘解由小路の仕事に確たる証拠は残らない。
それにしてもこの時代、金と言う鉱産物を扱うのは「修験系の山師」と考えるのが、まともではないだろうか。
藤原秀衛(ふじわらひでひら)は一目で義経の才を見抜き、喜んで奥州に迎え入れた。
源家は、八幡太郎源義家以来奥州藤原家とは縁が深い。
秀衛が義経に見たのは、瞬時に状況を判断し即応する常人に無い才であった。
そして表には出せないが、内々でやんごとない高位の人物の「蜜命書」が添えられている。
それでなくとも、中央の「土御門(安倍)」と奥州の「藤原(清原)」とは蝦夷族長の主導権で対立している。
つまり利害関係の延長線上に少年義経(遮那王)の奥州行きは有ったのである。
藤原家で六年、義経は秀衛に息子の様に可愛がられたが、兄頼朝の挙兵を聞き、時節到来と伊豆に駆けつける。
藤原秀衛が軍事顧問的に、配下の佐藤兄弟を義経の手勢として付けてよこした所を見ると、義経の挙兵は「秀衛、予定の範疇だった」のかも知しれない。
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