奥州・藤原家(清原家)・(二)八幡(はちまん)太郎・源義家
それから二十年後、源頼義に助勢して、安部氏を討った功績に拠り鎮守府将軍になった清原武則は既に亡くなり、清原家は孫の真衛(まさひら)の時代に成っていた。
この頃赴任してきた鎮守府将軍が源頼義の息子・源義家で、愛称(当時の風習)を、「八幡(はちまん)太郎」と称し、歌を読むなど「文武に優れていた」とされ、後世には、武門のシンボル=征夷大将軍の血筋は「武家の棟梁・源氏正統」の根拠の元と成った人物で、以後源氏の白い旗指し物に「八幡大菩薩(八万台菩薩)」が使われた。
源八幡太郎義家が鎮守府将軍に赴任して来た頃の奥州は、比較的平穏だった。
処が、清原真衛(まさひら)に子が無い事で、養子取りの祝い事の際のいざこざから、弟(いずれも藤原庶流からの養子縁組に拠る義弟)の清衝と家衝が敵に回り兄弟で合戦と成り奥州は乱れた。
これは身内の相続争いだが、当時の権力者の相続争いは殺し合いに発展する。
この混乱の最中、真衛(まさひら)が病死した為、真衛方に味方していた鎮守府将軍・源の義家に、敵対していた清衛と家衛が投降した。
源義家は投降した二人を許し、奥州の安定を図るべく奥州を半分に分けそれぞれに与える。
しかしその仕置きに家衛が不満を持ち、清衛の「暗殺を謀り」奥州全域を手に入れようとするが発覚、暗殺は失敗し、それでまた二人が戦乱を引き起こし、奥州は再び戦乱に成ってしまった。
清衛側に源義家が付けば、家衛の側には「安倍氏の残党が結集する」と言った具合で、簡単には決着が付かない。
その後源義家は苦労の末、弟の義光の助けも借りて家衛を討ち取るのだが、これを千八十年代に起こった、「後三年の役」と言う。
清原家衛を討ち取って漸く奥州の騒乱を平定した源義家だったのだが、朝廷はこれを「公務と認めず」、私闘と裁定された為に、源義家は恩賞を何も得られず戦(いくさ)のやり損であった。
この変則的な朝廷の処置の結果、奥州全域は清原清衡(きよはらきよひら)の元に転がり込んで来た。
この清衡には元々奥州清原家の安泰を願って藤原氏の系流から養子に来た経緯があり、領有した奥州全域の富を背景に、時の関白・藤原師実(ふじわらもろざね)に献上などして繋がり、許されて名を藤原清衡(ふじわらきよひら)と改める。
奥州平泉の大豪族、百年の栄華を誇る藤原家が誕生して、奥州の蝦夷族は過渡期的に自治政府もどきの統治を受ける事になったのである。
【奥州・藤原氏の誕生・(三)】に続く。
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皇統と鵺の影人
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