和田義盛(わだよしもり)
初期鎌倉幕府の有力後家人に和田氏がある。
和田氏は坂東八平氏(ばんどうはちへいし)のひとつ三浦氏の支族で、相模国三浦郡和田の里(現・神奈川県三浦市初声町和田)に所領が在った事から和田を苗字とする。
千百八十年(治承四年)、源頼朝が伊豆の国(いずのくに)・三島で平家打倒の挙兵をすると三浦氏一族は頼朝に味方する事を決め、頼朝と合流すべく三浦義澄以下五百余騎を率いて本拠の三浦半島を出立する。
この三浦勢の中に三浦流・和田義盛と弟の小次郎義茂もこの軍勢に参加している。
絶好の機会に、和田義盛には気合が入っていた。
勿論、和田義盛に義心が無かった訳ではないが、当然「出世のチャンス」と言う打算も多かった。
その打算が在ったからこそ坂東(関東)の豪族達は、三浦氏流にしても工藤氏流にしても身内でありながら平家方と頼朝方に分かれて戦う選択をした。
出世とは世に出る事である。
世に出るには、何かを為して名を挙げねばならないのだが、それを「名を成す或いは高名(功名)を挙げる」と言う。
所が折悪しく、丸子川(酒匂川/河口は現・小田原市)が大雨の増水で三浦勢は渡河出来ず、川の流量が下がるのを待っている間に石橋山の戦いで平家方の大庭景親が頼朝軍を撃破してしまった。
敗走した源頼朝は行方知れずになり、三浦勢は止む無く本拠地・三浦半島衣笠城へ兵を返す帰路、鎌倉由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇して合戦となった。
この合戦、武勇にはやる和田義盛が畠山の陣の前で名乗りをあげて挑発してしまい、合戦に成り掛かる。
しかし双方に縁者も多く、例えば畠山勢を率いる畠山重忠にとって相手の三浦氏当主・三浦義明は母方の祖父などの事から一時和平の方向に向かう所、事情を知らない義盛の弟・小次郎義茂が畠山の陣に突入して合戦になってしまい、双方戦死者を出したと「源平盛衰記」には記されている。
その二日後、畠山重忠は他の平家方と合わせて数千騎で三浦氏の本拠・衣笠城を襲う。
兵力に差がある上に前の合戦で疲労していた三浦義澄(みうらよしずみ)ら三浦一族は止む無く城を捨てて海上へ逃れ、海上で石橋山から逃れて来た北条時政(頼朝の舅)らと合流する。
和田義盛ら三浦一族は、三日後に相模湾を渡って来た盟主・頼朝を安房国平北郡猟島で迎えた。
この源頼朝の安房上陸に関しては、和田義盛の和田氏に安房国・和田御厨(わだみくりや)と呼ぶ所領が在った事がその要因と想像されるが、和田氏の本拠地が相模国三浦郡和田の里か、この安房国・和田御厨(わだみくりや)かはまだ歴史家の意見が分かれている。
安房に集結した頼朝方の残党は再挙を図り、有力な千葉常胤(ちばつねたね)には安達盛長(あだちもりなが)が上総広常(かずさひろつね)には義盛が使者と成るなど各地の武士に参陣を命じる。
千葉常胤は直ちに挙兵して頼朝を迎えたが上総広常は中々応じず、頼朝が安房を発して房総半島を北上し、千葉氏らを加えて隅田川に達した時、広常は漸く二万騎の大軍を率いて漸く参じ、「頼朝の器量を計った上で心服した」と伝えられている。
勿論、以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)は、坂東八平氏を始めとする坂東(関東)武者にも届いていた。
そして北条正子が睨んだ通り、源氏の棟梁・源頼朝は平家追討の旗印として威力が在った。
頼朝方に参じる坂東(関東)武士が増えて来ると、一時は平家方に就き和田義盛ら三浦一族と由比ヶ浜で戦った畠山重忠も翻意して頼朝方に参じ、旗揚げから僅か二ヶ月余りで五万騎の大軍を率いた頼朝は源氏の本拠・鎌倉に入った。
その後源頼朝方は、平維盛率いる平家の追討軍を駿河国・富士川の戦いで撃破し、関東の固めに入った頼朝方は常陸国の佐竹氏を討ち、和田義盛と上総広常は佐竹秀義を生け捕りにした。
鎌倉へ凱旋した和田義盛に、関東統治の為にの諸機関を設置した頼朝が義盛の望み通りに侍所別当を任じ、鎌倉大倉の地に頼朝の御所が完成するとその入御の儀式に際して義盛は居並ぶ御家人の最前に立っ名誉も与えられた。
【和田合戦(わだがっせん)】に続く。
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