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畠山重忠(はたけやましげただ)

平安末期石橋山合戦の場外戦として鎌倉の由比ヶ浜で三浦一族と合戦に及んだ畠山氏は桓武平氏流の平良文(たいらのよしふみ/村岡良文)を祖とする坂東八平氏の一つ秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(現・埼玉県深谷市畠山)を領し、秩父氏の同族には江戸氏河越氏、豊島氏などがある。

古くは八幡太郎義家(源義家)の頃から、畠山氏も多くの東国武士と同様に源氏の家人と成って仕えていた。

しかし平治の乱源義朝が敗死すると、父の畠山重能は平家に従って二十年に渡り忠実な家人として仕えた。

何も無ければそれなりの事だったが、千百八十年、伊豆の国(いずのくに)北条時政の下に流人として在った源義朝の継子である三男・源頼朝が、北条正子の婚礼騒ぎに乗じて以仁王の令旨を奉じ挙兵する。

この源頼朝の挙兵に際して、畠山重忠(はたけやましげただ)は当初敵対する。

この源頼朝の挙兵の時は、父・畠山重能が折悪しく大番役で京に上っていた為、領地に在った十七歳の重忠が一族を率いて対処する事になり、平家方として頼朝討伐に向う。

その畠山重忠の軍勢が戦場へ到達する前に、源頼朝は石橋山の戦いで大庭景親に大敗を喫して潰走していた。

相模国まで来ていた畠山勢は鎌倉の由比ヶ浜で、丸子川(酒匂川)が大雨の増水で渡河出来ずに引き返して来た和田義盛ら三浦勢と遭遇し、合戦となり双方に死者を出して兵を引いた。

その後、河越重頼、江戸重長の軍勢と合流した畠山重忠は三浦氏の本拠の衣笠城を攻め、多勢に無勢と成った三浦一族は城を捨てて海路安房を目指して逃亡するも、重忠は母方の祖父で一人城に残った老齢の三浦氏当主・三浦義明を討ち取った。

源頼朝は逃れた安房国で再挙し、千葉常胤(ちばつねたね)上総広常(かずさひろつね)らを加えて二万騎以上の大軍に膨れ上がって房総半島を進軍し、武蔵国に軍勢を進めて来た。

双方の判断で敵味方に分かれた為に和田義盛(わだよしもり)と合戦に及び、三浦一族の当主・三浦義明を討ち果たす仕儀と成った畠山重忠は、その後の顛末(てんまつ)で平家方に組する事の雲行きの怪しさを実感する。

畠山重忠は決断し、河越重頼、江戸重長とともに長井の渡しで先祖が八幡太郎義家(源義家)より賜った白旗を帰参し帰伏して頼朝を喜ばせ、重忠は先陣を命じられて相模国へ進軍、頼朝の大軍は抵抗を受ける事なく鎌倉に入った。

畠山重忠は以後頼朝に臣従し、治承・寿永の乱では知勇兼備の武将として常に先陣を務めて活躍し、武勇の誉れ高くその清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称され幕府創業の功臣として鎌倉幕府内で重きを為す。

源頼朝勢の追討戦に拠る平家滅亡後、畠山重忠は御家人に列して鎌倉幕府の要人となり鶴岡八幡宮社殿改築の上棟式で工匠に馬を賜る際に源義経とともに馬を曳くなどの栄誉を得ている。

また重忠は、この頃に将軍・頼朝の舅にあたる北条時政の娘を妻に迎えている。

しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略に拠って謀反の疑いをかけられ、止む負えず起こした「畠山重忠の乱(はたけやましげただのらん)」で一族とともに滅ぼされている。

畠山重忠の乱(はたけやましげただのらん)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2009-12-14 07:44

 

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