信長の、母に愛されなかった不幸(二)
翌年、織田信長の弟・織田信行(信勝)は岩倉城の織田信安に通じるなどして再度謀反を企てる。
信行(信勝)は兄・信長の蔵入地・篠木三郷(現春日井市)を再び横領しようとしたが、信行(信勝)やその家臣と対立していた柴田勝家がこれを信長に通報していた。
弟・信行(信勝)は兄・信長が病気との報を受け、柴田勝家に信長病の真偽を仰ぐ。
だが、信長と通じていたか勝家は「信長殿を騙して譲り状を書かせてしまえば信友殿もいない今、織田家は貴方のものです」と諭されて、その積りで清洲城へ信長の見舞いに行き清洲城北櫓・天主次の間で信長の命を受けた河尻秀隆に暗殺された。
母子の確執は色々伝えられているが、それでも信長は決して母・土田御前を憎んでいた訳ではない。
その証拠に、本能寺の変の時点では信長が自らの居城・安土城もしくは城下の屋敷に土田御前を住まわせて面倒を見ていた。
本能寺の変の後、http://jiyodan.exblog.jp/8412327/土田御前は孫の織田信雄(北畠信意/きたばたけのぶおき・当時伊勢国主)の庇護の下にあり、「大方殿(土田御前)」と尊称され、「六百四十貫文を化粧料として与えられていた」とされている。
息子が引き起こした事が例え「大それた事」であっても、その切欠は案外身近にある悲しみかも知れない。
我輩は、その生母・土田御前に愛されなかった事が、実は信長自身が「虚(うつ)けで無い」と土田御前に認めさせたくて「天下布武に信長を走らせたのではないか」と思えて成らない。
織田信長が後世の評価として冷酷残忍な性格と評される要因と成ったのは、この一度許した弟・信行(信勝)の再度の裏切りとそれを画策した母・の存在と言うトラウマが影を落としているのではないだろうか?
そしてそれは、身内とて「裏切りは許すべきではない」と言う信念から敵は完膚無きまでに根こそぎ叩き潰す冷酷残忍な結論に導かれたのかも知れない。
只、それは人間・織田信長の悲しみと怒りの結果で、その執念の先に在った物はまったく違う夢だったのではないだろうか?
つまり直近の身内まで心を許せない戦国の世の人間不信を拭いされないままに天下布武にまい進した信長の心根は、その冷酷な戦国の世を終わらせたかった密かな一念なのかも知れないのだ。
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