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中岡慎太郎(なかおかしんたろう)

中岡慎太郎(なかおかしんたろう)は、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現・高知県安芸郡北川村柏木)の北川郷大庄屋・中岡小傳次、はつの長男として生まれる。

長じて慎太郎は土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)の豪農から郷士に取り立てられた「白札郷士」の武市瑞山(半平太)が城下の新町に開いた剣術道場に入門する。

この武市道場の門下には後に「人切り以蔵」と恐れられた岡田以蔵等もおり、武市瑞山(半平太)の過激な思想が中岡慎太郎にも及んで居たと推測される。

中岡慎太郎が本格的に志士活動を展開し始めたのは、千八百六十一年(文久元年)に師である武市瑞山(半平太)が結成した土佐勤皇党に加盟してからである。

翌年(文久二年)、慎太郎は俊英と評判の長州・久坂玄瑞・山県半蔵(宍戸璣/ししどたまき)と伴に松代に佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論し大いに意識を高めて居る。

京都で八月十八日の政変(文久三年)が起こり土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まった為、慎太郎は速やかに藩を脱藩し久坂玄瑞らを頼って長州藩三田尻(現防府市)に亡命する。

亡命後、中岡慎太郎は長州藩内で脱藩志士達のまとめ役を勤め、久坂玄随の案内で三田尻近くの田布施に都落ちしていた公家・三条実美七卿落ちの衛士として随臣となり長州はじめ各地の志士達との重要な連絡役となる。

千八百六十四年(元治元年)、中岡慎太郎は石川誠之助を名乗り薩摩藩の島津久光暗殺を画策して上洛したが果たせず、長州方として脱藩志士達を率いて禁門の変、下関戦争と転戦して負傷する。

中岡慎太郎自身のこの頃の手紙に拠ると、一連の変事に於ける幕府方の長州藩への冤罪・薩長雄藩同士の有害無益な対立・志士達への弾圧を目の当たりにして、尊皇攘夷活動から方針を雄藩連合に拠る武力倒幕論に傾き始めていた。

慎太郎は、この雄藩連合に拠る武力倒幕を目指し三条実美とも連絡を取りつつ脱藩志士達のまとめ役として、薩摩と長州の志士たちの間を飛び回り、海援隊坂本龍馬や三条の随臣土方楠左衛門(土方久元)をも説き伏せて長州藩と薩摩藩との会合による薩長同盟締結を目指す。

千八百六十六年(慶応二年)の正月、中岡慎太郎は海援隊の坂本龍馬と伴に京都二本松薩摩藩邸に於いて長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)との会見を実現させ、漸く薩長の和解及び薩長同盟の締結を成し遂げる。

翌年(慶応三年)には、慎太郎は盟友の坂本龍馬ともども土佐藩から脱藩罪を赦免され、薩土同盟についても奔走して土佐の乾退助(板垣退助)と薩摩の小松帯刀・西郷吉之助との間で倒幕の薩土密約締結に成功する。

更に慎太郎は土佐藩取り込みに奮闘し、京都三本木料亭・吉田屋に於いて、薩摩の小松帯刀大久保一蔵(大久保利通)・西郷吉之助、土佐の寺村左膳・後藤象二郎乾退助(板垣)・福岡藤次(福岡孝弟)・石川誠之助(中岡)・才谷梅太郎(坂本龍馬)との会合にこぎつけ、双方の間で倒幕・王政復古実現の薩土盟約が締結される。

土佐藩に復帰した中岡慎太郎は、長州の奇兵隊を参考に自ら隊長となり陸援隊を本格的に組織し、白川土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定める。

まさに獅子奮迅の働きを見せた中岡慎太郎だったが、その終焉は突然遣って来た。

京都近江屋に坂本龍馬を訪問中に何者かに襲撃され瀕死の重傷を負い、同席した龍馬は即死ないし翌日未明に息絶えたが慎太郎は二日間生き延び暗殺犯の襲撃の様子について谷干城などに詳細に語り後に死去している。

三条実美ら七卿の衛士として田布施に在った中岡慎太郎は、当然長州の隠し玉・良光親王(ながみつしんのう)の末裔を知っていた。

或いは薩長倒幕派にして見れば、慶応元年に土佐勤皇党の武市瑞山(半平太)を切腹させるなど倒幕の腰の定まらない前土佐藩主・山内 容堂(やまうちようどう)など土佐藩に 不安を抱いて居た結果の陰謀かも知れない。

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by mmcjiyodan | 2009-12-24 00:26  

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