坂本龍馬(さかもとりょうま)と二人の妻
土佐藩下士(郷士)の軽輩・坂本龍馬は、岩の僅かなひび割れから滲(にじ)み出るように表舞台に姿を現したのだ。
もし、この事を「神の意志だ」と言うのなら、我輩も同意せざるを得無い。
運も実力の内だが、坂本龍馬のデビューは言わば幸運の連続だった。
土佐藩下士(郷士)で在りながら商家(才谷屋)も営んで居て裕福だった坂本家の次男・龍馬は剣術修行に江戸に出て、高名な北辰一刀流剣術開祖・千葉周作の弟・千葉定吉の小千葉道場(千葉定吉道場)に入門した。
その後千葉定吉の息子・千葉重太郎と友人関係、また重太郎の妹・千葉さな子(定吉・二女)は龍馬の婚約者とも妻とも言われて居る。
坂本龍馬は、千八百五十七年(安政五年)に二度目の江戸での剣術修行を終えて土佐に帰国、楠山塾で学ぶ他に城下の日根野弁治の道場へ入門し、下士の習う小栗流和兵法を学ぶ。
この二度目の龍馬・江戸修行、修行では無く小千葉道場の「千葉さな子が目当てだった」と言う説もある。
龍馬が幕府政事総裁職の松平春嶽に面会出来たのはこの「千葉重太郎の紹介」と言われ、そこからまるで「わらしべ長者」のように春嶽の紹介状を携えて、勝海舟に弟子入りしている。
一般的に知られている龍馬の妻は「おりょう(本名は楢崎龍子/ならさきりょうこ)」、ただ資料に拠っては故郷の土佐(高知県)には「婚約者の千葉さな子も居た」とされる。
つまり北辰一刀流小千葉道場・千葉重太郎の妹・千葉さな子が、龍馬の正式な妻だった可能性は強い。
本命の、「おりょう」こと龍子は、幕府の詮議で龍馬が危ない時、たまたま湯を使っていたが、戸惑う事無く急を知らせに全裸で部屋まで走ったそうである。
楢崎龍または龍子とも言われる通称「おりょう」は、医師・楢崎将作の長女として生まれた。
「おりょう」の父・将作は京都柳馬場三条南で医者を開業していたが、尊王の志士らと積極的に交流していた為に井伊直弼による安政の大獄で連座して捕らえられ獄死している。
「おりょう」の一家は父の獄死に拠り生活に困るように成り、母と幼い四人の弟妹を養うために旅館・扇岩で働くも間もなく旅館を辞めて天誅組残党の賂(まかないふ)となる。
その天誅組が幕府の追討を受けると、「おりょう」は各地を放浪するようになった。
この各地放浪の最中に坂本龍馬と出会い、自由奔放な所を龍馬に気に入られて愛人となりその世話を受けて寺田屋に奉公する事となる。
「おりょう」は気性は激しいが、その激しさで、「龍馬を愛していた」と言う事で有ろう。
坂本龍馬は生まれ付き気が優しく、本来争いは好まなかった。
優しすぎて姉の乙女(おとめ)などは龍馬を弱虫呼ばわりして、剣術を教え込んだ逸話が残っている。
しかし異性に関しては並の男に違いなく、チャッカリ二人の女性を愛していたのだろうか?
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