谷干城(たにたてき)
谷氏は、土佐の国人領主から戦国大名に成った長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の忠臣・谷忠澄(たにただすみ)が「元は土佐国の神官で在ったが、長宗我部元親に見出されて家臣となり、主に外交方面で活躍した」とされる所から、谷忠澄(たにただすみ)の末裔が江戸末期の学者・谷重遠(秦山)だろうと推測され、谷干城(たにたてき)本人もその血流を名乗っている。
谷干城(たにたてき)は、千八百三十七年(天保八年)土佐藩士・谷万七(たにまんしち)の第四子として高知城下に生まれた。
干城(たてき)二十二歳の千八百五十九年(安政六年)江戸に出て安井息軒の弟子となって学んだ後、土佐に帰国して藩校・致道館で史学助教授となる。
干城(たてき)は土佐勤皇党の武市瑞山(半平太)と知り合って友人となり尊王攘夷運動に傾倒するも、千八百六十六年(慶応二年)藩命で長崎を視察した時、そこで後藤象二郎や坂本龍馬と交わって攘夷拠りも次第に倒幕へ傾いて行った。
千八百六十七年(慶応三年)には、盟友の坂本龍馬や中岡慎太郎がともども土佐藩から脱藩罪を赦免された為、谷干城(たにたてき)は再び江戸に出て西郷隆盛と会い、奔走して土佐藩主・山内容堂の側用役重臣・乾退助(板垣退助)と薩摩藩家老の小松帯刀(こまつたてわき/小松清廉・ こまつきよかど)・西郷吉之助との間で薩土(薩摩藩と土佐藩)同盟を結んで討幕運動を目指した。
この年、京都近江屋に滞在中の盟友・坂本龍馬が何者かに襲われて斬殺され、同席していた陸援隊・中岡慎太郎(なかおかしんたろう)も重傷を負った時、干城(たてき)は駆けつけて落命前の中岡から襲撃時の情況を聞き取っている。
その後谷干城(たにたてき)は、翌年(明治元年)の戊辰戦争で官軍の大軍監として北関東・会津戦線で活躍し、明治三年には土佐藩に戻って藩少参事と成り藩政改革に尽力するも翌明治四年の廃藩後、兵部権大丞(ひょうぶごんのだいじょう)として新政府に出仕、陸軍少将・熊本鎮台司令長官となる。
谷干城(たにたてき)は一時熊本鎮台司令長官を退くが、神風連の乱後、薩摩に戻った西郷隆盛周辺の不穏な動きを考慮した新政府が再び干城(たてき)を熊本鎮台司令長官に起用、その西郷隆盛決起の西南戦争の際には、干城(たてき)は五十二日間に渡って西郷軍の攻撃から熊本城を死守し、政府軍の勝利に貢献している。
西南戦争の功績により干城(たてき)は陸軍中将に昇進、陸軍士官学校長と成るも台湾出兵時の政府・陸軍首脳部不手際を抗議して辞任をする。
谷干城(たにたてき)はその後、学習院院長から政治家に転身、千八百八十五年(明治十八年)の第一次伊藤内閣(伊藤博文)の初代農商務大臣に就任するなど晩年は貴族院議員・土佐派の重鎮として活躍し、明治四十四年に七十五歳で没した。
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