西郷隆盛(さいごうたかもり)・城山の最期
熊本鎮台司令長官・谷干城(たにたてき)が守る熊本城の陥落に失敗、田原坂の攻防に敗れた西郷隆盛率いる薩軍は、人吉、小林、宮崎と敗走を重ね、難路・可愛岳(えのだけ)越えを敢行して出陣から七ヶ月後に故郷鹿児島の城山に辿り着き立て篭もった。
一時三万人まで膨れ上がった薩軍兵力は、城山に辿り着いた時には僅か四百名にまで減少し装備も百五十挺の先込め小銃と数門の砲、一方、城山を包囲する政府軍は五万の大軍だった。
城山を包囲した政府軍は、千八百七十七年九月二十四日午前四時の号砲を合図に総攻撃を開始、西郷軍も徹底抗戦するが次々と陣地を破られ、包囲網は縮まって西郷自身も大腿部を銃撃され歩行困難となるなど惨憺たる戦況となる。
自分の役目が終わったと感じた西郷は自らも数箇所傷つきながら、心静かな安らぎの中に最期を迎えようとしていた。
死を目の前に、西郷隆盛が心穏やかな気分に成ったのは久しぶりだった。
「わー」と言う辺りを威圧する時の声。時折響く「ど~ん」と言う不気味な砲声。「どし~ん」着弾の音、舞い上がる砂埃。
「だぁ~ん」銃声の先で「バタッ」と倒れる兵の姿。
乱れ飛ぶ怒号や気合と斬り合いの響きが、遠く近く聞こえながら迫って来ていた。
西郷隆盛は傍らの別府晋介に声をかけ、「晋どん(別府晋介)、もうここいらで良かでごわはんか。」と介錯を頼み、自刃する。
西郷が自軍の将兵に解散を布告した北川の地から可愛岳(えのだけ)越えを敢行して終焉の地城山まで従った四百名の中には薩軍幹部・村田新八(むらたしんぱち)、篠原国幹(しのはらくにもと)、桐野利秋(きりのとしあき)、池上四郎(いけのうえしろう)等が居て最後は四十数名が残っていた。
その残っていた四十数名が、城山陥落時は西郷隆盛の自決を見守った後に岩崎口の塁をめざして進撃、途中、弾雨の中で自刃、刺し違え或いは戦死した。
西郷隆盛はこの城山の自刃で、自らが生み出した維新政府と言う作品に、密かに魂を入れたのかも知れない。
理性では割り切れない事も、感性の思い入れが強ければ理解できる。
今一度言うが、明治維新は隆盛にとって、自分が生み出した身を棄てても(自らを犠牲にしても)惜しくは無い心境の、歴史そのものだったかも知れない。
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